あるものが存在しているとは、そこに存在せしめている空間、場所があるということを示しています。存在者はそれだけで存在出来ないのです。
このことだけを取っても存在論的には、私が存在しているのは、私を超えたもの無し(勿論、これにはもっと深い意味があります)にはあり得ないことが理解されるでしょう。
この超越したもの、超越者はどこまでも無限定、無制約なものと言うことが出来ます。
私は今、部屋の中に存在している...部屋にはそれを超えた家屋が存在している...家屋にはそれを超えた敷地が存在している...とどのつまり、超越者とは、どこまでも果てしなく広がる空間と結びついたもの、ということが出来るでしょう。
そのすべてに渡るものを“全体的なもの“として捉えられたりもしますが、全体という一つの括られたものということになると、無限定とは言えなくなりますね。
超越者は、どこまでも空なるものと相即されている...そして空なるものとは、如何に目に見えない霊体的存在?や、微粒子レベルで説明されるものだろうと、存在を超えたものと言わざるを得ないでしょう。
私はここで、しち難しい、ヘンな虫が寄ってくるような、哲学的論理を展開している訳ではないのです。(そうしようにも、頭悪いので出来ません!)
“私は在る“、という意識には、どこまでも超えたものが相即していることを感じずにおれない、ということを言いたいがためなのです。(どうか、読者もこのことを感じ取って欲しい!)
それは無限定であり、無制約なもの...他の何ものにも拠らず、それ自身に拠ってあるものでしょう。
ドイツの哲学者ヤスパースは、この超越的なものを、先の限界を感じさせる、全体的なものと区別させ、空的なものをも包括する、というニュアンスから“包括者“と呼んでいました。
包括者という言葉は、やはりヤスパースが曰く言い難いことを言い表す、媒体のようなものとしてキーワードにしていた“暗号“の、その最重要なものでしょう。
存在するものも、存在を超えたものも、すべてを包括するもの...
それは、単なる全体という言葉からは伝わりにくいもの...私に内在しているもの、私の実存をも包括しているのです。
そして、おお!...“私の実存は包括者とともにある!“...このような言葉が脳裏に過るだけで、現臨感に包まれてしまう!
この暗号は、念仏のような“名号“ともなるのか...?!
このことだけを取っても存在論的には、私が存在しているのは、私を超えたもの無し(勿論、これにはもっと深い意味があります)にはあり得ないことが理解されるでしょう。
この超越したもの、超越者はどこまでも無限定、無制約なものと言うことが出来ます。
私は今、部屋の中に存在している...部屋にはそれを超えた家屋が存在している...家屋にはそれを超えた敷地が存在している...とどのつまり、超越者とは、どこまでも果てしなく広がる空間と結びついたもの、ということが出来るでしょう。
そのすべてに渡るものを“全体的なもの“として捉えられたりもしますが、全体という一つの括られたものということになると、無限定とは言えなくなりますね。
超越者は、どこまでも空なるものと相即されている...そして空なるものとは、如何に目に見えない霊体的存在?や、微粒子レベルで説明されるものだろうと、存在を超えたものと言わざるを得ないでしょう。
私はここで、しち難しい、ヘンな虫が寄ってくるような、哲学的論理を展開している訳ではないのです。(そうしようにも、頭悪いので出来ません!)
“私は在る“、という意識には、どこまでも超えたものが相即していることを感じずにおれない、ということを言いたいがためなのです。(どうか、読者もこのことを感じ取って欲しい!)
それは無限定であり、無制約なもの...他の何ものにも拠らず、それ自身に拠ってあるものでしょう。
ドイツの哲学者ヤスパースは、この超越的なものを、先の限界を感じさせる、全体的なものと区別させ、空的なものをも包括する、というニュアンスから“包括者“と呼んでいました。
包括者という言葉は、やはりヤスパースが曰く言い難いことを言い表す、媒体のようなものとしてキーワードにしていた“暗号“の、その最重要なものでしょう。
存在するものも、存在を超えたものも、すべてを包括するもの...
それは、単なる全体という言葉からは伝わりにくいもの...私に内在しているもの、私の実存をも包括しているのです。
そして、おお!...“私の実存は包括者とともにある!“...このような言葉が脳裏に過るだけで、現臨感に包まれてしまう!
この暗号は、念仏のような“名号“ともなるのか...?!
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