人間は考え、行動する生き物だ、と当たり前のように思われています。
そして人生は何を為(成)したかによってはかられたりします。
何をしていいか分からないのに、どっかから、”為せ、為さねば成らぬ!”という声に迫られ、せき立てられるように感じて、為せないことにひがみを感じたり...
まるで為さはければ、幸福を得ることが出来ないかのように思われているようです。
だけど、もし何にもしなくても幸福に与っちゃってたらどうなのでしょう?
例えば、テレビを観てたら...とか外に出て夕焼けを眺めてたら...とか行動と結びつくものではあるけれど、普通考えられている能動的なそれではありません。
もっと受動的で本当に何もしなくても幸福に与るということもあるのです。意識的になっているということはあるのですが...そう、これを毎度書いている訳ですね!
目的論というものでなく、すべての人生の軸になるものは、”幸福であること”と言ってもいいでしょう。”幸福を得るため”、ということは、ここでは敢えて外して言っているのです。
だってそう取ると、幸福を得るために何かの行動に駆り立てられたりするんでしょう?
精神的な道でも、短絡的に行動する人は、難行苦行や禁欲、あるいはオカルト教説にハマったり色々闇雲に突っ走ったりします。
それで、本当に幸福が得られるのでしょうか?...そんな保障などどこにもありません。
一つのヒントととなるものとしては、幸福に与れるものなら、それを目指して何らかのことを行っているプロセスにおいて何かしらの幸福を感じ取っているはずです。
私が言いたいことの本質的なことはこの辺りにあるのです。
つまりは、何かをやろうと、やるまいと”幸福であること”!
もし、何もしなくても意識的になっているだけで幸福に与っているとして、さらにそれを確たるものにしようとして、何かを為(成)そうとしたが、(これは得てして世の常として有り勝ちなことなのですが)、その課程で幸福感を失うことになったとしたら、こんなに愚かなことは無いでしょう!
逆に言えば、そうしたあれこれの行動に走ってしまうことは、その起点となるところですでに”本来的幸福”を感じることが出来ない、それを失ってしまっているということでしょう。
そうでなければ、そのように迷ったりはしないはずなのです。
人間は、考え、行動する生き物です。勿論、何もしなくて寝てばかりで生きる訳には行きません。
何をするにせよ、幸福であることから離れずに行動することは可能なのです。”幸福であることを意識する”ことによって!...軸からブレたりはしない!
そう考えると、”何をするか?”、ということはあまり重要では無いのかもしれません。
というか、幸福に感じていることは自然にやらされているものなのでしょう。
もう、すっかり春ですね!
”幸福、幸福”って、一寸お花畑すぎるみたいですけど、私の場合、それは神と共にあるもの、切り離せないもの、であるのは言うまでもありません。
ということは自分だけ幸福であればいい、ってことにはならないのです。
皆さんも幸福であらねば...でなきゃ、こういうことは書いてません!
そうすることで幸福に感じていなければ!...
そして人生は何を為(成)したかによってはかられたりします。
何をしていいか分からないのに、どっかから、”為せ、為さねば成らぬ!”という声に迫られ、せき立てられるように感じて、為せないことにひがみを感じたり...
まるで為さはければ、幸福を得ることが出来ないかのように思われているようです。
だけど、もし何にもしなくても幸福に与っちゃってたらどうなのでしょう?
例えば、テレビを観てたら...とか外に出て夕焼けを眺めてたら...とか行動と結びつくものではあるけれど、普通考えられている能動的なそれではありません。
もっと受動的で本当に何もしなくても幸福に与るということもあるのです。意識的になっているということはあるのですが...そう、これを毎度書いている訳ですね!
目的論というものでなく、すべての人生の軸になるものは、”幸福であること”と言ってもいいでしょう。”幸福を得るため”、ということは、ここでは敢えて外して言っているのです。
だってそう取ると、幸福を得るために何かの行動に駆り立てられたりするんでしょう?
精神的な道でも、短絡的に行動する人は、難行苦行や禁欲、あるいはオカルト教説にハマったり色々闇雲に突っ走ったりします。
それで、本当に幸福が得られるのでしょうか?...そんな保障などどこにもありません。
一つのヒントととなるものとしては、幸福に与れるものなら、それを目指して何らかのことを行っているプロセスにおいて何かしらの幸福を感じ取っているはずです。
私が言いたいことの本質的なことはこの辺りにあるのです。
つまりは、何かをやろうと、やるまいと”幸福であること”!
もし、何もしなくても意識的になっているだけで幸福に与っているとして、さらにそれを確たるものにしようとして、何かを為(成)そうとしたが、(これは得てして世の常として有り勝ちなことなのですが)、その課程で幸福感を失うことになったとしたら、こんなに愚かなことは無いでしょう!
逆に言えば、そうしたあれこれの行動に走ってしまうことは、その起点となるところですでに”本来的幸福”を感じることが出来ない、それを失ってしまっているということでしょう。
そうでなければ、そのように迷ったりはしないはずなのです。
人間は、考え、行動する生き物です。勿論、何もしなくて寝てばかりで生きる訳には行きません。
何をするにせよ、幸福であることから離れずに行動することは可能なのです。”幸福であることを意識する”ことによって!...軸からブレたりはしない!
そう考えると、”何をするか?”、ということはあまり重要では無いのかもしれません。
というか、幸福に感じていることは自然にやらされているものなのでしょう。
もう、すっかり春ですね!
”幸福、幸福”って、一寸お花畑すぎるみたいですけど、私の場合、それは神と共にあるもの、切り離せないもの、であるのは言うまでもありません。
ということは自分だけ幸福であればいい、ってことにはならないのです。
皆さんも幸福であらねば...でなきゃ、こういうことは書いてません!
そうすることで幸福に感じていなければ!...
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