人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

わが主に凝縮されるもの

2025-01-28 04:25:23 | 祈りと瞑想
朝目覚めた時など、よく自然と祈りとも瞑想ともつかないようなことに導かれるのですが、それには僅かに意識が向く、向けられるということがあるだけで、通常祈りとして理解されている形というものはありません。
従って、キリスト教のイエス.キリストとか、浄土系仏教の阿弥陀如来といった特別な帰依対象というものも無いのです。
それでも強いてそれを表すとしたら、(それだけだと何を書いているのか分からないだろうから、読み手を意識して)“わが主“ということになるでしょう?
“そうか、キリスト者なんじゃん?“、って思われるかもしれませんが、それはそっちでは、“主キリスト“という呼び名が慣用化されているだけなのであって、どの宗教でも“わが主なるもの“の響きというものは頂いているのではないでしょうか?
何度か言っているように、それは一コの私を超えた、見えない領域を含めたすべての私のことをその一語で言い表しているのです。
これは、ちょっと前にも書いたように、私にはわが主キリストという呼び名でも、自分を超えたものであると同時に本当の自分自身でもあるという、そういう響きは感じられて来ます。
又、仏教のブッダとは、阿弥陀仏のような帰依対象にとどまらず、内在のブッダ、“仏性“という意義も含まれているものであり、これもわが主の内実を伝えるものと言えるでしょう。
つまり、キリスト(性)、ブッダ(性)というものは、意識の在り方次第(観念的に信じるだけで無く)では、それ自体が超越的な神的なものと、内在的な真我的なものを一つに、直接的に自己に開かれるものなのです。勿論、こういう例は他にも多数あることでしょう。(私の場合、朝の目覚めの時など、そういうことが身に覚えられているので、特定の名を用いる必要が無い、ということなのです)
この点、イスラムではどうなのか?...預言者ムハマッドというイエス、ブッダと並び称される聖者は、“わが主ムハマッド“という風に先の、神と真我が一つになるように、祈り、瞑想の場で呼び慣らされている例はあまり聞きません。
預言者ムハマッドは、唯一神アッラーを取り次ぐ存在であり、そこで神との関係は二段になってしまいます。又、前回にも書いたように、唯一全能の神というのは、抽象的で捉えどころが無く、直接自己実存につながって来ません。
もっとも、これはあくまで概念的な説明をしたまでで、あらゆる霊性の道、神秘道においては、そういう言葉を超えて、イスラムでしたらムハマッドに、アッラーに“わが主“が重ねられるという例もきっとあることでしょう。
このように、“わが主“という一語には、一元も二元も超えた、あらゆる霊性の道が凝縮されていると言っても過言ではないのです。
それが祈りに結びつけば、神との人格的関わりと言われるような性質のものに導かれるのが自然でしょう。
しかしそれは、字義通りの意味を超えて、他人事でない、神と自己との直なる関わりとなることを言い表しているのは言うまでもありません。
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