“ネガティブなことを思うのはやめて、ポジティブな思いに切り替えよう!
怒りや暗い気持ちは抑えて、明るく笑おう!“
私はここで、このように自分の心の持ち方を変えるようなことはほとんど言ってません。
自分の経験に即したことなのですが、心からそういう気持ちになったことも、変わったこともほとんど無いからなのです。
“いや、そこを気持ちをもっと強く持たないと!...“なんて言われても...だから気持ち自体がそうならないんだって!
勿論、ネガティブな思いでいることも、怒りや暗い気持ちでいることは、けっしていいとは思いませんよ!
余程私の心は、“心の鍛錬”をするには捻れているのでしょう?
じゃ、自分で自分の心をどうこう出来なきゃどうすればいいのか?
神を思えばいいのです!...神に意識を向けるとか、分かりやすく言うと、そういうことを言っているのです。
五井先生流に言えば、神に思いを投げ入れてしまうこと...祈るということも、思う、意識を向けるといっても同じことです。
それで気持ちがポジティブになれるか、暗い、荒んだ気持ちが晴れるかどうかは知らない...知らないんだけど、自ずと安らぎ、平安に満たされます!
心を変えるために、ってことも勿論無くはないのですが、この場合は神を意識することが重要なのです。だから、知らない!...だけどそれで平安に導かれない訳が無いのです!
心を変えようとしたって、黒を白く変えられないように、ならんものはならないですよ!
最初は神を思うというと、自分で思おうとしてしまうかもしれないけれど、何か“開かれる”という感じがしてきたら、自分の思いを超えて、神的なものが臨んで来るのが分かるようになるでしょう。
開かれる、というのは神との回路みたいなもので、そこから神的なエネルギーが流れてきたり、交流がもたれりするあるもののことです。
一度、それが開かれてしまえば、思おう、やろうとしなくても、“自ずから“という感じになります。
実を言いますと、向けられないこともそりゃあるし、今でも”そんなバカな?“、な~んてことも思うこともあるんですよ!
だけどだけど...“んなことがあるのか!”、ってことを何回も感じさせられているのです!
自分の思いを超えて、っていうのはこういうことなのです。
私なんかは、“そんなの当たり前だ、百発百中だ!”、なんていい気になってるより“そんなバカな!”と思ってた方がいいからそうしてんですよ?...
”百発百中?...そうかな?...きっとそうだろう?...ふはははっ!“
自分で書いててウケてます!
要するに、自分の思いに取り込んだり、自分で自分の心をどうとかするんじゃなく、根本的なことは、神に意識を向けることに重きが置かれているということです。
だから自ずと意識が向いてしまうのでしょう!...
怒りや暗い気持ちは抑えて、明るく笑おう!“
私はここで、このように自分の心の持ち方を変えるようなことはほとんど言ってません。
自分の経験に即したことなのですが、心からそういう気持ちになったことも、変わったこともほとんど無いからなのです。
“いや、そこを気持ちをもっと強く持たないと!...“なんて言われても...だから気持ち自体がそうならないんだって!
勿論、ネガティブな思いでいることも、怒りや暗い気持ちでいることは、けっしていいとは思いませんよ!
余程私の心は、“心の鍛錬”をするには捻れているのでしょう?
じゃ、自分で自分の心をどうこう出来なきゃどうすればいいのか?
神を思えばいいのです!...神に意識を向けるとか、分かりやすく言うと、そういうことを言っているのです。
五井先生流に言えば、神に思いを投げ入れてしまうこと...祈るということも、思う、意識を向けるといっても同じことです。
それで気持ちがポジティブになれるか、暗い、荒んだ気持ちが晴れるかどうかは知らない...知らないんだけど、自ずと安らぎ、平安に満たされます!
心を変えるために、ってことも勿論無くはないのですが、この場合は神を意識することが重要なのです。だから、知らない!...だけどそれで平安に導かれない訳が無いのです!
心を変えようとしたって、黒を白く変えられないように、ならんものはならないですよ!
最初は神を思うというと、自分で思おうとしてしまうかもしれないけれど、何か“開かれる”という感じがしてきたら、自分の思いを超えて、神的なものが臨んで来るのが分かるようになるでしょう。
開かれる、というのは神との回路みたいなもので、そこから神的なエネルギーが流れてきたり、交流がもたれりするあるもののことです。
一度、それが開かれてしまえば、思おう、やろうとしなくても、“自ずから“という感じになります。
実を言いますと、向けられないこともそりゃあるし、今でも”そんなバカな?“、な~んてことも思うこともあるんですよ!
だけどだけど...“んなことがあるのか!”、ってことを何回も感じさせられているのです!
自分の思いを超えて、っていうのはこういうことなのです。
私なんかは、“そんなの当たり前だ、百発百中だ!”、なんていい気になってるより“そんなバカな!”と思ってた方がいいからそうしてんですよ?...
”百発百中?...そうかな?...きっとそうだろう?...ふはははっ!“
自分で書いててウケてます!
要するに、自分の思いに取り込んだり、自分で自分の心をどうとかするんじゃなく、根本的なことは、神に意識を向けることに重きが置かれているということです。
だから自ずと意識が向いてしまうのでしょう!...
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