私は、いつもここで神について書いていますが、特定の宗教、教えに寄りかかることなく、自由な感性で書かせてもらっているのです。
これには、返す返すもかつて入信していた宗教団体で、その教条的な在り方で信じ従わせられていた、神についての教えに縛られていたことが、そこから離れることで解放されたことが、実に大きいことだったと言わねばなりません。
ということは、私はその在り方に心から信頼など持てるはずもなく、疑問、不満、苦痛を抱えていたという訳で、裏を返せば、神について心から求めていたものは、自由な在り方によるものだったということです。
つまり、苦しみを感じなければ、そこから自由になりたいという思いに駆り立てられることは無かったのです。
それはしかし、そういうしがらみを抱えている(と思っている)自分からは、中々そのように決心することは難しいもので、そう自分の背後から導くものがあったりするものです。
私の場合、それは(言うまでもなく)神です!...度々言うように、それには五井先生との出会いというものが大きかったのには違いないですが、私には元々、その教団に入信する以前から、左程意識的でないながらも、私なりの神についての理解というものは持っていたのです。
それは、大まかに言うと、神は愛であって、いつも私の背後で守り導くものだ、ということであり、そういうことは、何度となく、何となく感じていたのです。これが五井先生の教えと結びつくのも全く自然、当然なことと言えるでしょう。
そして、五井先生の白光会に入会するのも自然なことのように思えるのですが...そうはならなかった!
その他、形の上でに入会した団体はいくつかあったものの、普通の信者のような、一つの宗派、グループに専心し帰依して行くような関わり方は一度も無かったのです。
何故かと言えば、神は自由だから!...あの教条的な教えの呪縛から解放されたのは、自由なる神の導きによるものではなかったか?
神は、如何なる先入観、固定観念からも自由である...神は私の思いを超えているのだから!
様々な宗教、宗派から学ぶのは自由でしょう(余計な、雑多な知識を仕込まされることは、人間の団体には付き物ではありますが)...それからの、あの疑問、不満、苦しみを再び繰り返す必要は無いではないか?
その学びは、遅かれ早かれ、その指し示すものに還元されねばならないもののはずなのです。
でなければ一体、何のための学び、信仰、修行なのか?
こうしたことの声なき示しは、私がその宗教信者を辞めた時、ハッキリ受けていたのです。
その時だけのものではありません。ずっと受けているのです!
しかし、そいつは私の観念なのだろうか?...そうかもしれませんが、諸々の観念は、来ては去っていく中で、こうして今も思いを超えて感じてしまうんだからどうしようもありません!
だから、その催しというか、おハタラキは自由に、神ながらのまにまにおまかせするよりありません。
そうして、私も自由に在らしめられるだけ!...
これには、返す返すもかつて入信していた宗教団体で、その教条的な在り方で信じ従わせられていた、神についての教えに縛られていたことが、そこから離れることで解放されたことが、実に大きいことだったと言わねばなりません。
ということは、私はその在り方に心から信頼など持てるはずもなく、疑問、不満、苦痛を抱えていたという訳で、裏を返せば、神について心から求めていたものは、自由な在り方によるものだったということです。
つまり、苦しみを感じなければ、そこから自由になりたいという思いに駆り立てられることは無かったのです。
それはしかし、そういうしがらみを抱えている(と思っている)自分からは、中々そのように決心することは難しいもので、そう自分の背後から導くものがあったりするものです。
私の場合、それは(言うまでもなく)神です!...度々言うように、それには五井先生との出会いというものが大きかったのには違いないですが、私には元々、その教団に入信する以前から、左程意識的でないながらも、私なりの神についての理解というものは持っていたのです。
それは、大まかに言うと、神は愛であって、いつも私の背後で守り導くものだ、ということであり、そういうことは、何度となく、何となく感じていたのです。これが五井先生の教えと結びつくのも全く自然、当然なことと言えるでしょう。
そして、五井先生の白光会に入会するのも自然なことのように思えるのですが...そうはならなかった!
その他、形の上でに入会した団体はいくつかあったものの、普通の信者のような、一つの宗派、グループに専心し帰依して行くような関わり方は一度も無かったのです。
何故かと言えば、神は自由だから!...あの教条的な教えの呪縛から解放されたのは、自由なる神の導きによるものではなかったか?
神は、如何なる先入観、固定観念からも自由である...神は私の思いを超えているのだから!
様々な宗教、宗派から学ぶのは自由でしょう(余計な、雑多な知識を仕込まされることは、人間の団体には付き物ではありますが)...それからの、あの疑問、不満、苦しみを再び繰り返す必要は無いではないか?
その学びは、遅かれ早かれ、その指し示すものに還元されねばならないもののはずなのです。
でなければ一体、何のための学び、信仰、修行なのか?
こうしたことの声なき示しは、私がその宗教信者を辞めた時、ハッキリ受けていたのです。
その時だけのものではありません。ずっと受けているのです!
しかし、そいつは私の観念なのだろうか?...そうかもしれませんが、諸々の観念は、来ては去っていく中で、こうして今も思いを超えて感じてしまうんだからどうしようもありません!
だから、その催しというか、おハタラキは自由に、神ながらのまにまにおまかせするよりありません。
そうして、私も自由に在らしめられるだけ!...
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