人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内なる神と人類

2024-07-13 09:42:03 | 
神は人の思いを超えたもの...
もう、私はこのことをマントラのようにいつも言っています。
そういうものをいつも感じているのですが、それは端的にどういうものかというと、やはり愛としか言いようのないものなのです。
愛というものも、より我々に近しく感じられるように、思いを超えたものでしょう。
このことで、自己と神は分かち難い関係にあるもの、ということを言い表しているのです。
だから、愛念というものが深まれば、神的なものを感じるようになるし、その逆にもなるのです。
にも拘わらず、これまで多くの宗教で、神は我々に隔絶した、万有の創造主、支配者として、又善悪を裁定する裁き主というようなイメージを与えてしまい、我々の意識から遠ざける傾向を作り続けて来たようです。
そこに、五井先生などは、神の“守護の神霊”という面を強調し、世界平和を祈るということで、愛念を起こすことを勧めたのでしょう。
それ以前にも出口王仁三郎師は、“瑞の御霊“として、神の救済のハタラキを表し、”人類愛善”を唱えたのでした。
ただ私などは、その人類というものが、私自身の現実からは隔絶したもののように感じてならないのです。
何よりも、神との愛というものは、自分自身との関係において、内側から示されなければ、本当にリアルなものにはならないでしょう。
この意味で、平和という言葉はちょっと抽象的であり、愛の具体的な表れは、平安という響きとして実感されるものでしょう。
いやだから、ホント~(リアルに)に、愛と平安は分けることが出来ないのですって!
もう私は、超越的な神というものは、思いを超えていることを直指しているものであれ、自己と超絶したものとして感じることは出来なくなってしまったのです。
思いを超えているということは、それだけ私に近しく、一つになるということに他ならないのですから!
そして、この私なるものも、一個なるものを超えて、他者性とつながるもののように感じ始めるのです。
その他者は言うまでもなく、抽象的な人類といったものでない、言うなれば、具体的な”私の内なる人類性”といったものでしょう?
そういう愛、平安に与るならば、それが一人でも多くの者に、それが分かち合えるようになるのを願わずにおれなくなるのが、自然なことではありませんか?
言葉、形は如何なるものであれ、神的なものと愛念で一つになる祈りが広まり、深くならんことを!...
一人一人に愛が浸透すればするほど、思いを超えた神的なハタラキが顕わになる...
そして、それは逆のことでもある!
私の願い、祈りは願わされ、祈らされているのでしょう!...




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神の愛の支配 | トップ | 求めてやまないものがある »

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事