ここ数年、私は自分の本来性というものを意識するだけで、言い知れぬ安らぎを覚えるようになりました。
本来性とは、自然であり無理の無い在り方であり、”それに到達した”、とか”そんな境地になった”とかいう言い方は不適切、ということが分かるでしょう。
”かつての私は、不自然な生き方をしていたが、今はそのように変わるようになった”、という言い方もなんかヘンですねえ...
かつての不自然な私でも、そのブ厚い外装を脱げば本来の私で在り得たのです。
”本来の私に戻る、帰る”という言い方は出来るでしょう。そうなるには、何の努力も必要が無いはずなのです。
私はね、自分で言うのもおかしいですが、本来とても感性が豊かな人間なんですよ。
それがかつての私は、そのまんまに生きるのは、人に弱みを見せることのように思い、それを覆い隠して生きていたのです。今思うとチャンチャラおかしいことなんですが...
それで、人前ではなんか難しいことをいつも考えているような、知的な人間であるように装っていたのです。能面みたいな顔してね。いつも頬の辺りが不自然に引きつっているような感じがしたものです(笑)
論理的に考えることがエライような気がして、そう考えようとするのですが、オツムの構造が元来そのように出来ていないのだから無理なんですよ。
高校の時、授業でこれまで読んで印象に残っている本の読書感想文を書け、ということになったのですが、今じゃ考えられないことですが、それまでろくすっぽ一冊の本も読んだことない上に、気の利いた、難しいことを書かなきゃ、って意識が働いて、ついに白紙で提出したことを覚えています。感想文なんだから、感じたことを書きゃあいいのに!...今ならスラスラと言葉が湧き出るに任せていくらでも書けますよ!
マトモに読んだ本が無かったらマンガについて書きます。「鉄腕アトム」とか感激して読みました。ホントなんだからしょうがない!
”あの時の私はいつも迷っていた、頭の中がモヤモヤしていた、苦しかった!...
ものが本当に分かるとはどういうことなんだろう、それとも分からなくてもいいことがホントなのだろうか?
ああ、読んだり聞いたりするんじゃなくて、マンガの主人公のように直接、ものにブチ当たって生きてみたい!(ほお、結構、哲学してるじゃん!)...”
私は今、こう書いてみて、なんだか魂が震えて来てたまらない感じを覚えます。
思いを超えたものにアクセスしているようです。そこに震源地がある!、惹かれてやまないものがある!
思いを超えるということは、真向かいに自分自身に会うことなんだ!
こういうことは、多く宗教書よりもベルジャーエフとかの哲学書から学んだのです。
というよりも、それに”感応した”と言った方が近いでしょう。
そこに哲学的論理性など求められないのは、皮肉かもしれませんが!...
かつては上手く”着地”が出来なかったですが、なんか知的っぽいところもただの偽装では片付けられない私の本来性を成しているものではあるようです。
知性というものは、本来感性と一つのものなので、それと結び付かなければ着地出来ないものでしょう。
哲学的論理は元より破綻しているのですが、知的直観によって私の実存はところを得たと言ってもいいでしょう。
私の実存?...それは私には何かは分からない。私を超えたものに感応して分かるもの...いや分からなくてもいい!、感じていたらいい!...
本来性とは、自然であり無理の無い在り方であり、”それに到達した”、とか”そんな境地になった”とかいう言い方は不適切、ということが分かるでしょう。
”かつての私は、不自然な生き方をしていたが、今はそのように変わるようになった”、という言い方もなんかヘンですねえ...
かつての不自然な私でも、そのブ厚い外装を脱げば本来の私で在り得たのです。
”本来の私に戻る、帰る”という言い方は出来るでしょう。そうなるには、何の努力も必要が無いはずなのです。
私はね、自分で言うのもおかしいですが、本来とても感性が豊かな人間なんですよ。
それがかつての私は、そのまんまに生きるのは、人に弱みを見せることのように思い、それを覆い隠して生きていたのです。今思うとチャンチャラおかしいことなんですが...
それで、人前ではなんか難しいことをいつも考えているような、知的な人間であるように装っていたのです。能面みたいな顔してね。いつも頬の辺りが不自然に引きつっているような感じがしたものです(笑)
論理的に考えることがエライような気がして、そう考えようとするのですが、オツムの構造が元来そのように出来ていないのだから無理なんですよ。
高校の時、授業でこれまで読んで印象に残っている本の読書感想文を書け、ということになったのですが、今じゃ考えられないことですが、それまでろくすっぽ一冊の本も読んだことない上に、気の利いた、難しいことを書かなきゃ、って意識が働いて、ついに白紙で提出したことを覚えています。感想文なんだから、感じたことを書きゃあいいのに!...今ならスラスラと言葉が湧き出るに任せていくらでも書けますよ!
マトモに読んだ本が無かったらマンガについて書きます。「鉄腕アトム」とか感激して読みました。ホントなんだからしょうがない!
”あの時の私はいつも迷っていた、頭の中がモヤモヤしていた、苦しかった!...
ものが本当に分かるとはどういうことなんだろう、それとも分からなくてもいいことがホントなのだろうか?
ああ、読んだり聞いたりするんじゃなくて、マンガの主人公のように直接、ものにブチ当たって生きてみたい!(ほお、結構、哲学してるじゃん!)...”
私は今、こう書いてみて、なんだか魂が震えて来てたまらない感じを覚えます。
思いを超えたものにアクセスしているようです。そこに震源地がある!、惹かれてやまないものがある!
思いを超えるということは、真向かいに自分自身に会うことなんだ!
こういうことは、多く宗教書よりもベルジャーエフとかの哲学書から学んだのです。
というよりも、それに”感応した”と言った方が近いでしょう。
そこに哲学的論理性など求められないのは、皮肉かもしれませんが!...
かつては上手く”着地”が出来なかったですが、なんか知的っぽいところもただの偽装では片付けられない私の本来性を成しているものではあるようです。
知性というものは、本来感性と一つのものなので、それと結び付かなければ着地出来ないものでしょう。
哲学的論理は元より破綻しているのですが、知的直観によって私の実存はところを得たと言ってもいいでしょう。
私の実存?...それは私には何かは分からない。私を超えたものに感応して分かるもの...いや分からなくてもいい!、感じていたらいい!...
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