人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

裏側からの裏付け

2024-11-22 09:54:48 | 現臨、ハタラキ
私がいつも書いている、例えば“思考が超えられる、そこに神的なものが臨む“、というようなことは、言うまでもなくそれは、“ああだろう、こうだろう“とか、私が考えたことを書いているのではないのです。
元より言っていることに理論的裏付けなど無いし、それを求める必要もありません。
いや、私の理解も十分ではなく、表現も適切では無いのかもしれません。
しかし、そこには玉城康四郎先生が言われたように、表側の私でない“裏側“からの裏付けがあるのです。この裏側から来るものが正に思い、為そうとする私を超えた、神的なものに他なりません。
だから、私は“霊性を開くには思いを超えなければならない“、と言葉の上でそういう風に取れてしまう言い方をすることもあるかもしれませんが、現実にはそれは、裏側からのハタラキ無しには不可能なのです。
しかしながら、この思考次元を超えること“のみ“に関して、あるいはある種の修行方法によっては可能かもしれません。薬物の使用によっては現に可能な訳でしょう。
だが、私はそこにどんな危険、魔境が待ち受けているのかと思うと寒気がして来るのを覚えます。
又、悟り、覚醒を目指しての瞑想修行などでは、自己意識というか、“私は在る“という意識があるうちは中途の段階なので、そういう意識は超えなければならない、と説いている向きもあります。
一体彼らは悟りについて何を求めているのでしょうか?...幸福?、安らぎ?、それとも常人が到達し得ない、究極の悟りの境地とか?...
普通に考えてみれば分かるだろう!...自己というものが無ければ、それであらゆる苦しみも悩みも無くなるだろうけど、幸福、安らぎ、何かの境地に達する自分も無くなるということなのですよ!
これは、全くの人間としての在り方の終焉、死に等しいこと、廃人になる道という他無いでしょう?
私はこれまで、数回いづれも一過性のものでしたが(そうでなきゃたまったもんじゃないですよ!)、そういう“私はここに在る“という感覚が無くなりそうになった(完全に無くなったらどういうことになっていたか分かりません)ことがあるのです。(勿論自分が望んでそうなった訳じゃないですよ!、何かの経験としてそうさせられたのか?)
全く思考も感情も無い!...幸福、平安、リアリティというものも何も感じられない!
これは端的に言うと、神的な現臨の無い意識状態ということなのです。魂を持たないゾンビのようなものでしょう。
これでハッキリと裏付けられるのです。自己実存というものは、超越的な現臨あってのものだということが!
だから私は、悟りとか覚醒といった、煌びやかなイメージに幻惑されて、こうした危険な現実のことを考慮しないような心持ちは、所詮観念のお遊戯に耽っているだけのように感じてならないのです。
何よりも自分の力、想念意志によって悟りが開けると思うこと自体が幻想なのではないか!
だから、私は霊性は神的なもの無しには開かれないということを強調せざるを得ないのです。
又、そのことが危険な魔境的な状態に陥ることからあなたを守ることになるのです。
私はここで何度となく、霊性の道を開くには“祈ること“と言ってきました。
何かの瞑想でもいいでしょう。だけどそれには得てして、神的なものと結びつかない、ただ“超えることだけ“が独り歩きしているものもあるようです。
これはですね、先のアブナイ道に陥らないための道義的な意味だけで言っているんじゃないですが...
超えるといった場合、現実に思いを超えた、神的なものに意識が自然に向けられてしまうのですよ!...裏側からビシッと裏付けられる!
現実に、自然に!...そうなってしまうんだから仕方がない!...
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