我々人間は、言うまでもなく言葉無しに生きては行けません。
テレパシーかなんかが開かれない限り...
って、霊能力者でない私が想像するに、テレパシーってのは、思いの中で言葉が交わされるものなのでしょうか?
普通に表される言葉を使う我々は、多分そうだと思います。原始、未開人のように言葉が発達していない人間なら分からないですが...彼らは言葉以前の言葉を伝え合っているのでしょう?、そう考えるしかありません。
言葉以前の...?、そりゃ一体何だ?...コトタマ?、ロゴス?...そういう言葉は無いの?、こんな肝心なものが!...伝えようとするもの無しに、一体何を伝えよう(は?)、否何が伝わるかってんです!
もし、そういうものが無かったら、すべてのコミュニケーションは、成り立たなくなると言ってもいいでしょう。感じてみたら分かる?...言葉に中身というか、命が無くなるでしょう?
やっぱり言葉は、コトタマというか、“たましい“が宿り、又宿らせることも出来るんだと思いますよ。
未開人などは元から、現代人の以心伝心的対話では、表される言語に加え、言葉に言い表せないものを響かせて伝えたりも出来るのでしょう?
我々は表された形だけの言語しか活用していなかったら、それは思考のみで生きている人間と同じで、この世界は、生命の無い機械のような社会になってしまうことでしょう?
そう考えると、我々の言語機能というものは、思っていたよりも、元々テレパシックな要素を持っているのかもしれません。
言葉はその制約を受けて、外からの先入観念を呼び込んだりもするものですが、言葉に言い表されない内的なものを呼び覚ますものでもあります。
例えば、神、キリスト、聖霊...これは私が感じているキリスト教で使われている名詞の代表的なものですが、あるキリスト者にとり、又私のようなキリスト者でない者にとっても、これはただの名詞では無くなるのです。キリストは固有名詞?...いや私にはもう、そうであって、そうじゃない!
名詞で無くなるとなると、動詞か?、神する?、キリスト、聖霊する?...こりゃオカシイ!
この一つ一つの言葉は、一言で説明出来ません!
これは、三位一体というか、この一つ一つの言葉が、ある一つのことを呼び込む、呼び覚ますことにもなるのです!
それは、現臨(神の現臨、キリストの、聖霊のそれ)にある意識状態のことです。一つ一つの言葉にそういう、そうなるという響きが含まれ、溶け込んでいるという感じです。
これらは、名詞でも、動詞でも、助動詞でも何でもいい!、そういうメンドサイ、言葉の制約などを超えて、そのようなことを言い表す、言うたら動的な代名詞(言葉が生きているんだ!)みたいなものです。
これは、そういう呼び覚まされるという原体験があるから、そうなるということ!
そういうことが特に私には印象に残っているので、キリスト教で呼び慣わされているものを借りて、“現臨“と、こう呼んでいるまでです。
これは、精神的な道にある人なら、各々に自分に合った“動的代名詞“といったものがあるはずです、
言葉はその表れたまんまがそうなのではなく、もっと内実を掘り下げ、形を超えたものを表して行く必要があるでしょう。そうでなければ、機械のように言葉に使われるだけでしょう。
言葉は、あたかも我々人間存在の動的代名詞のようでもあります。
テレパシーかなんかが開かれない限り...
って、霊能力者でない私が想像するに、テレパシーってのは、思いの中で言葉が交わされるものなのでしょうか?
普通に表される言葉を使う我々は、多分そうだと思います。原始、未開人のように言葉が発達していない人間なら分からないですが...彼らは言葉以前の言葉を伝え合っているのでしょう?、そう考えるしかありません。
言葉以前の...?、そりゃ一体何だ?...コトタマ?、ロゴス?...そういう言葉は無いの?、こんな肝心なものが!...伝えようとするもの無しに、一体何を伝えよう(は?)、否何が伝わるかってんです!
もし、そういうものが無かったら、すべてのコミュニケーションは、成り立たなくなると言ってもいいでしょう。感じてみたら分かる?...言葉に中身というか、命が無くなるでしょう?
やっぱり言葉は、コトタマというか、“たましい“が宿り、又宿らせることも出来るんだと思いますよ。
未開人などは元から、現代人の以心伝心的対話では、表される言語に加え、言葉に言い表せないものを響かせて伝えたりも出来るのでしょう?
我々は表された形だけの言語しか活用していなかったら、それは思考のみで生きている人間と同じで、この世界は、生命の無い機械のような社会になってしまうことでしょう?
そう考えると、我々の言語機能というものは、思っていたよりも、元々テレパシックな要素を持っているのかもしれません。
言葉はその制約を受けて、外からの先入観念を呼び込んだりもするものですが、言葉に言い表されない内的なものを呼び覚ますものでもあります。
例えば、神、キリスト、聖霊...これは私が感じているキリスト教で使われている名詞の代表的なものですが、あるキリスト者にとり、又私のようなキリスト者でない者にとっても、これはただの名詞では無くなるのです。キリストは固有名詞?...いや私にはもう、そうであって、そうじゃない!
名詞で無くなるとなると、動詞か?、神する?、キリスト、聖霊する?...こりゃオカシイ!
この一つ一つの言葉は、一言で説明出来ません!
これは、三位一体というか、この一つ一つの言葉が、ある一つのことを呼び込む、呼び覚ますことにもなるのです!
それは、現臨(神の現臨、キリストの、聖霊のそれ)にある意識状態のことです。一つ一つの言葉にそういう、そうなるという響きが含まれ、溶け込んでいるという感じです。
これらは、名詞でも、動詞でも、助動詞でも何でもいい!、そういうメンドサイ、言葉の制約などを超えて、そのようなことを言い表す、言うたら動的な代名詞(言葉が生きているんだ!)みたいなものです。
これは、そういう呼び覚まされるという原体験があるから、そうなるということ!
そういうことが特に私には印象に残っているので、キリスト教で呼び慣わされているものを借りて、“現臨“と、こう呼んでいるまでです。
これは、精神的な道にある人なら、各々に自分に合った“動的代名詞“といったものがあるはずです、
言葉はその表れたまんまがそうなのではなく、もっと内実を掘り下げ、形を超えたものを表して行く必要があるでしょう。そうでなければ、機械のように言葉に使われるだけでしょう。
言葉は、あたかも我々人間存在の動的代名詞のようでもあります。
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