私は、何度か言っているように、キリスト教的なものにとても惹かれることはあっても、クリスチャンになることは無かったのです。
イエスという数千年前の、異国の人間を“我が主“として受け入れ、呼びまつることなんてどうしても出来ない! あの人らは、何で“おお、イエス様!“なんて呼んだり出来るのか? 見たのか?、何かを感じるのか?、いや聖書や牧師の言葉を鵜呑みにしているだけではないのか?
それに、“イエス.キリストの名以外に我々が救われるべきものは与えられていない“、と来ては、絶対にそんな独善的なものは受け入れられません!
そんな私でも、そのキリスト教的な集会で、あの“御方“のみ手に捉えられてしまったことがあるのです。
それは、フレンド会でも小池先生亡き後のキリスト召団でもありました。
それは紛う方無き“あの御方、我が主“を受け入れた瞬間であったのです。パウロじゃないけど、“私が生きているんじゃない、私の主なるものが生きているのだ!“ということを実感させられたのでした。
その御方とは、イエス様?...そうじゃない!...キリスト?、そうじゃなさそうで、そうかもしれない?
とにかく、私の中に何の理屈も、わだかまりもなく、一つのものがスーッと入り、通って行ったのです。この御方は、そうなる以前からも、キリストの集会の外でもずっと我が主であり続けていたのだ!
それをキリストならそう呼ぶことに何の抵抗も感じません。なんてことは無い、私はずっと前からキリストを受け入れていたのではないか?
仮にそれが阿弥陀如来でも素戔嗚尊でも構わない…要するに本当に、私の主なるものとして感じざるを得ないのならば!
だから、私にはキリストとは固有名詞ではないのです。牧師や信者は何と言うか知らないけれど、イエスは違いますよ!
イエスは阿弥陀如来と言うのはやっぱりオカシイ!...阿弥陀様も固有名詞ではありません。
これは、イエスがキリストになったことと、法蔵菩薩が誓願が成就することによって、阿弥陀如来になったという、浄土教の教えとよく似ています。
ついでに言うと、イエスのみ名を通して祈るということも、阿弥陀仏への称名、念仏と似ていますね。ただ、それはキリストのみ名に何でならないのだろうと思うのは、ただの私のへ理屈でしょうか?
新約聖書によると、ナザレのイエスは、バプテスマのヨハネを通じて、水のバプテスマを受けてキリストになったのでしょう?
しかし、聖書記者は、どうもイエスは生まれた時から神の子、イエス=キリストであることを強調したかったからなのか、このキリストのイニシエーションというものを軽く捉えているようです。
私もずっとそう見ていました。あれはただ頭から水を浸す儀式なのだろう、と。
しかし、聖書をよく読むと、“聖霊が鳩の如くイエスの上に現れた“、とあるではないか?
ただの儀式なんかであろうはずがない!
これ以降、イエスの中にキリストが生きて、イエスを通してキリストが顕わになる、又聖霊のハタラキも顕わになったということではないでしょうか?
もっとも、仏典でも聖書でも、それが真実だろうと虚構だろうと、ただ書かれているだけのものとして、読んでたって何にもなりません。
自己の実存の現実に即したものにならなくては!
“我が主“が目の当たりに明らかなものにならなくては!
イエス=キリスト。これがどんだけ私に障壁となったことか!...それを自分のこととして受け入れられるのならいいでしょうが、そういう信仰命題をいくら信じてたってしょうがありません。
イエスにおいて、キリストと一つになったように、一人一人においてキリストと一つにならねば!
自己において、キリスト神我(真我)が実現しないならば、我々は本当には救われないのでしょう?
イエスという数千年前の、異国の人間を“我が主“として受け入れ、呼びまつることなんてどうしても出来ない! あの人らは、何で“おお、イエス様!“なんて呼んだり出来るのか? 見たのか?、何かを感じるのか?、いや聖書や牧師の言葉を鵜呑みにしているだけではないのか?
それに、“イエス.キリストの名以外に我々が救われるべきものは与えられていない“、と来ては、絶対にそんな独善的なものは受け入れられません!
そんな私でも、そのキリスト教的な集会で、あの“御方“のみ手に捉えられてしまったことがあるのです。
それは、フレンド会でも小池先生亡き後のキリスト召団でもありました。
それは紛う方無き“あの御方、我が主“を受け入れた瞬間であったのです。パウロじゃないけど、“私が生きているんじゃない、私の主なるものが生きているのだ!“ということを実感させられたのでした。
その御方とは、イエス様?...そうじゃない!...キリスト?、そうじゃなさそうで、そうかもしれない?
とにかく、私の中に何の理屈も、わだかまりもなく、一つのものがスーッと入り、通って行ったのです。この御方は、そうなる以前からも、キリストの集会の外でもずっと我が主であり続けていたのだ!
それをキリストならそう呼ぶことに何の抵抗も感じません。なんてことは無い、私はずっと前からキリストを受け入れていたのではないか?
仮にそれが阿弥陀如来でも素戔嗚尊でも構わない…要するに本当に、私の主なるものとして感じざるを得ないのならば!
だから、私にはキリストとは固有名詞ではないのです。牧師や信者は何と言うか知らないけれど、イエスは違いますよ!
イエスは阿弥陀如来と言うのはやっぱりオカシイ!...阿弥陀様も固有名詞ではありません。
これは、イエスがキリストになったことと、法蔵菩薩が誓願が成就することによって、阿弥陀如来になったという、浄土教の教えとよく似ています。
ついでに言うと、イエスのみ名を通して祈るということも、阿弥陀仏への称名、念仏と似ていますね。ただ、それはキリストのみ名に何でならないのだろうと思うのは、ただの私のへ理屈でしょうか?
新約聖書によると、ナザレのイエスは、バプテスマのヨハネを通じて、水のバプテスマを受けてキリストになったのでしょう?
しかし、聖書記者は、どうもイエスは生まれた時から神の子、イエス=キリストであることを強調したかったからなのか、このキリストのイニシエーションというものを軽く捉えているようです。
私もずっとそう見ていました。あれはただ頭から水を浸す儀式なのだろう、と。
しかし、聖書をよく読むと、“聖霊が鳩の如くイエスの上に現れた“、とあるではないか?
ただの儀式なんかであろうはずがない!
これ以降、イエスの中にキリストが生きて、イエスを通してキリストが顕わになる、又聖霊のハタラキも顕わになったということではないでしょうか?
もっとも、仏典でも聖書でも、それが真実だろうと虚構だろうと、ただ書かれているだけのものとして、読んでたって何にもなりません。
自己の実存の現実に即したものにならなくては!
“我が主“が目の当たりに明らかなものにならなくては!
イエス=キリスト。これがどんだけ私に障壁となったことか!...それを自分のこととして受け入れられるのならいいでしょうが、そういう信仰命題をいくら信じてたってしょうがありません。
イエスにおいて、キリストと一つになったように、一人一人においてキリストと一つにならねば!
自己において、キリスト神我(真我)が実現しないならば、我々は本当には救われないのでしょう?
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