使徒パウロにとって、キリスト.イエスこそは正師だったのでした。
いや「もはや私が生きているのではない。キリストが我が内に生きたもうのである」(ガラテヤ書2.20)というのだから、それ以上の存在なのかもしれません。
しかし、パウロは生前のイエスを知らなかった...つまりは、その神人は"見えざる導師"だったということでしょう。
もし、パウロがぺテロたちのように生身のイエスを知っていたら、あのような実存的回心体験に与ることが出来たでしょうか?
おそらく私は、アンチ.キリストの急先鋒のままだったんじゃないかと想像します。
見えざる導師との関わりは、より直接的なものとならざるを得ないようです。
所謂キリスト教の神秘思想家と呼ばれる人たちに見るまでもなく、キリスト教の"師資相伝"を物語る例というのは、こういうケースが圧倒的に多いですね。
彼らは皆、正師について異口同音に"霊なるキリスト"を語るのです。
では、これがそもそもキリスト教会なるものの発祥となった、あのペンテコステの聖霊降臨の出来事はどうだったでしょうか?
「彼らは酒に酔いしれているに違いないi」(使徒行伝)...これ、私自身が40年程前、初めて小池先生のそのペンテコステ集会に直に接して感じた印象に他なりません。
大声で何か叫ぶ者、泣き叫ぶ者..."彼らは、理性がどうにかなってしまって、集団的熱狂に憑かれているんだ..."
しかし、そう傍らで訝しく感じていた私自身も、ずっと後にそれらと同様という訳ではないにせよ、その頃とは違い、大分"大人しくなった"その集会でどうにかなってしまったことがあります。
私は、そこで断じて集団的熱狂に飲まれた訳じゃありません。集まる人たちの方が理性的で熱狂的でなかったのですから...
クリスチャンでない私は、そこで我が師キリスト.イエスを証した訳でもないのです。(多少、その場に迎合したことを述べたかもしれませんが)私の"正師"に迫られるまま、やむにやまれぬままに何ごとかを語ったのでした。そしてそこに漂う、言い知れぬ一体感というものを覚えたのです。
このように傍目には、集団的熱狂、陶酔に映るものでも、その内実は伺い知れないものがあるのです。
しかし、それは容易くそうしたものに流れ、変質してしまうとも限らないものであるのも事実でしょう。私はそういう実例にも接して来ているのです。
それは、そこに集まる一人一人の意識の有り様如何によると言えるでしょう。
一人一人の実存に開かれてあるか、そこから生まれる自由な共同意識に根差したものであるか...
似て非なる集団的熱狂の事態とは、"私が私自身で居られる"我々の共同意識に集団的思念が介在し、それにおもねることによって生まれるのでしょう。集団的思念からは、思いを超えた内的実存は開かれないのです。
それは言い換えれば、普遍的なものに開かれているか、どうかということに尽きるでしょう。
集団的思念がいよいよ強固となるとカルト集団となる...この違いには天と地ほどの開きがあると言う他ありません。
私は、ベルジャーエフがその霊的共同体"ソボールノスチ"について説いている中で、集団的なるものと共同的なるものとを使い分けている表現法に習ってかく言うのです。
ともあれ、キリスト教の霊なる命、形なき命の相伝には、自己を超えた共同体に意識が向けられていることが知られるでしょう。
これはその母体となった、ユダヤ教から受け継がれて来たものでしょう。
それは個にして普遍なる神の国の実現と結び付いている...私の深部にはこうしたものが拭いされなく横たわっているのです...。
いや「もはや私が生きているのではない。キリストが我が内に生きたもうのである」(ガラテヤ書2.20)というのだから、それ以上の存在なのかもしれません。
しかし、パウロは生前のイエスを知らなかった...つまりは、その神人は"見えざる導師"だったということでしょう。
もし、パウロがぺテロたちのように生身のイエスを知っていたら、あのような実存的回心体験に与ることが出来たでしょうか?
おそらく私は、アンチ.キリストの急先鋒のままだったんじゃないかと想像します。
見えざる導師との関わりは、より直接的なものとならざるを得ないようです。
所謂キリスト教の神秘思想家と呼ばれる人たちに見るまでもなく、キリスト教の"師資相伝"を物語る例というのは、こういうケースが圧倒的に多いですね。
彼らは皆、正師について異口同音に"霊なるキリスト"を語るのです。
では、これがそもそもキリスト教会なるものの発祥となった、あのペンテコステの聖霊降臨の出来事はどうだったでしょうか?
「彼らは酒に酔いしれているに違いないi」(使徒行伝)...これ、私自身が40年程前、初めて小池先生のそのペンテコステ集会に直に接して感じた印象に他なりません。
大声で何か叫ぶ者、泣き叫ぶ者..."彼らは、理性がどうにかなってしまって、集団的熱狂に憑かれているんだ..."
しかし、そう傍らで訝しく感じていた私自身も、ずっと後にそれらと同様という訳ではないにせよ、その頃とは違い、大分"大人しくなった"その集会でどうにかなってしまったことがあります。
私は、そこで断じて集団的熱狂に飲まれた訳じゃありません。集まる人たちの方が理性的で熱狂的でなかったのですから...
クリスチャンでない私は、そこで我が師キリスト.イエスを証した訳でもないのです。(多少、その場に迎合したことを述べたかもしれませんが)私の"正師"に迫られるまま、やむにやまれぬままに何ごとかを語ったのでした。そしてそこに漂う、言い知れぬ一体感というものを覚えたのです。
このように傍目には、集団的熱狂、陶酔に映るものでも、その内実は伺い知れないものがあるのです。
しかし、それは容易くそうしたものに流れ、変質してしまうとも限らないものであるのも事実でしょう。私はそういう実例にも接して来ているのです。
それは、そこに集まる一人一人の意識の有り様如何によると言えるでしょう。
一人一人の実存に開かれてあるか、そこから生まれる自由な共同意識に根差したものであるか...
似て非なる集団的熱狂の事態とは、"私が私自身で居られる"我々の共同意識に集団的思念が介在し、それにおもねることによって生まれるのでしょう。集団的思念からは、思いを超えた内的実存は開かれないのです。
それは言い換えれば、普遍的なものに開かれているか、どうかということに尽きるでしょう。
集団的思念がいよいよ強固となるとカルト集団となる...この違いには天と地ほどの開きがあると言う他ありません。
私は、ベルジャーエフがその霊的共同体"ソボールノスチ"について説いている中で、集団的なるものと共同的なるものとを使い分けている表現法に習ってかく言うのです。
ともあれ、キリスト教の霊なる命、形なき命の相伝には、自己を超えた共同体に意識が向けられていることが知られるでしょう。
これはその母体となった、ユダヤ教から受け継がれて来たものでしょう。
それは個にして普遍なる神の国の実現と結び付いている...私の深部にはこうしたものが拭いされなく横たわっているのです...。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます