人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍的なトライアングル

2023-09-22 09:07:23 | スピリチュアル
いつも言うように、私が精神的な道について書いていることには、私が考えた独創的な理論、方法といったものは何一つありません。ただ私なりの表現というものがあるだけなのです。
例えば”神的な現臨”というものでも、古今東西のあらゆる宗教、スピの道において触れていないものは無いと言っていいでしょう。触れていないとしたら、それは観念に浮くか、形骸化するしかありません。
つまり、”道は生きたものでなければならない、そうでなければ何になる”、ということなのです。
そのように、あらゆる精神的な道に通底している普遍的な在り方というものがあるのではないか?
その一つは、”三位一体”の道であろう!...”出たよ!、コイツが言うんだから、それがキリスト教の教理でないことくらい分かってるけど、独自の三位一体論とかを展開しようとしてんだろ?
だからね、そういう表現は、キ教の独占物のように思われていて、あまり言葉としては、表されてこなかっただけで、ホントはそういうものが常に内包されているんだ、ということを言いたいの!”
父と子と聖霊の三位一体、トライアングル。それはこれと重なったものだけど、ただ抽象的な教理として自分の向こうに置いて信じ従っているだけだったら生きたものにならないでしょう。
だから、主体となる私を置いて、現実にその世界に入っていなかったら、すべて絵のように思い描かれたもになってしまいますよ!
子たるキリストとは、私と切り離されたものである訳が無い!...
父とは、名前は何であれ、絶対者のことでしょう。理屈を超えた絶対なるものを頂かなければ、向かうとか、惹かれるとか意識が動くということがありません。
向こうを眺めているのでなく、現実に意識が動く!...そこにはハタラキがある、力学的エネルギーがある...これを聖霊というもので表しているのでしょう。
ダンマと言い、タオと言い、その道が生きたものとなるのは、このものが生きてハタラクからと言っても過言ではないでしょう。
これ無くして、絶対なるものと一如に、一つになることがありません。
しかし、絶対者と私の一如の関係というものは、力学的ハタラキを超えた、愛、安らぎというものがあります。そこにこの三つが一つのものとなることによる綾というものが息づいているのを感じます。
これらのことはことごとく、三つで一つに相即し合って分かち難く結ばれているのです。
私を離れて父も聖霊も無く、父を離れても聖霊を離れても同様に...
神と人と聖霊は一つ!...わが実存において一つ!...現臨にあって一つ!...言葉、表現を超えて、普遍的に一つのものを感じてこないでしょうか!?
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