人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本心と照明

2025-02-16 06:11:30 | 意識、照明
誰でも迷っている時とか進路を決めたい時など、自分の本心に聞いてようとするものでしょう。そういう言葉は使われていますね?
勿論、それが本当に自分の本心なのかどうかは分からないのですが...迷った心とは別にそういうものがあるとは思っているのでしょう?
それには心を落ち着けなければならない...浮ついた欲望とか皮相的な思いから離れなければならない...これは、内省、反省と結びついているのです。
それは、形としては無いもので、何かは分からないのですが、何かそういう範、標準のようなものがあるように感じていて...あるいは、それは自分の外、上から照らされる何かの光のように感じられる人も居るかもしれません。
これなんかは自分でそう思っている、思おうとしている“本心“よりも、それを超えたものに依ろうとする分、真実に近いのかもしれません。
いずれにしても、このように無意識に刷り込まれている(?)ものには、本来的に、自然にそう赴かされるようなあるハタラキが存しているのではないでしょうか?
私自身も何が本心、真我なのかは分からないです。でも、勿論本心に聞こうとする心はありますよ。否、そう自然に赴かせるハタラキというものは感じているのです。
これは、多く私が“照明“と呼んでいる、正に先の自分の思いを超えて、上から照らしている光のようなもの...要するにそれに自分の心を照らそうとすることなんです!
これは、何となくそう思う、感じることじゃなくて具体的に感じられるものなのです。
表層的な思考に自分を置くのでは無く、無意識のままになっているのでは無く、もっと意識的になることによって!(というか、そういうこと自体が“照明にゆだねる“ということでもあるのですが...)
無意識に感じているものは、意識的になることによって、ハッキリと顕わになるのです。
自分の思いからは、自我と識別が出来にくい真我というもの...どうしてもそういう実体を思い描いてしまうものよりも、照明にゆだねた方が思いを超えられやすい、ということは言えます。
これは、神にゆだねることと言ってもいい...照明を受けることは、神的な現臨に与ることと同じなのですから!...
宗教、霊性の道においては、特に禅とか瞑想の道ではよく“自己観察“ということが説かれています。そこから本心に聞いてみる、それにつながる道が開かれるのだ、と。
しかし、私はそうしようと思っても中々そうならない“思いにさせられる“ばかりなのでした。
そこに10年くらい前、電撃のように、私の思いを超えて差し込んで来たものがあったではないか!
前から漠然と感じていたものではあったが、始めてそれがハッキリ示された!
これは自分から始めようとする観察では無い!...自分を超えて観察しているものがある!...
それが“照明“であったのです!


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