人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神、真我しか実在しないとは?

2025-03-02 06:41:43 | スピリチュアル
私が最近、しばしば言っている、“神(真我)しか実在しない!“という言葉は、何だか極論みたいに思われるかもしれません。
実在するかどうか分からないのに、何故そんなことが言えるのか?
この疑問は、実在するという言葉が“そういう実体がある“、というイメージと結びつくところから来るのでしょう。
神はそういう実体があるかどうかは分かりません。実体を思い描いての言葉だったら多分極論になるでしょう?
でも、どうしても“実在する“ということを言いたくなるのは、そこに“リアリティ“が感じられるからなのです。リアリティということもそう言い表すしかないものなのですが...
要するに、否定したり、疑うことが出来ないようなことです。
ですから、神以外にも大事な、大切な、最愛のもの、人でもペットでも実在しているではないか?、という疑問は、それは先の実体論から来るのです。
最愛の人とかは、勿論実体として存在するように感じるものです。でもそれは、言うまでもなく永遠のものではありません。実体は存在していても、最愛のものでは無くなるということもあります。
しかし、それが無くなってしまってもなお、最愛のものとして感じられることもあるかもしれません。詩人ダンテの最愛の女性、ベアトリーチェのように...
この場合、ダンテにとってベアトリーチェは、その肉体という実体性を超えたものに化してしまっているということなのでしょう。ずっと最愛のものであり得たのでしょう。
最愛なるものこそ実体を超えたものなのです。神とは(より“すべてのもの“というニュアンスが感じられるものですが)そういうものではないでしょうか?...少なくとも私にはそうなのです。
先のダンテにとってのベアトリーチェは、その最愛なるものと切り離されないようにも、それを媒体しているというか、映し出しているのでしょう。そうなることで実体を超えてしまう。
これは、ペットとか動物にも応じられるものです。私なんかは猫ちゃんなどにも神的なものが映し出されているのを感じてしまいます。古代エジプトの“アモン.ラー“みたいなものです。
いや、そうなるとそればかりか、あらゆるものが神的なものを映し出しているように感じることもあるのです。
私が初めて神の手に捉えられて、“人生の裏側“へ踏み入れてしまった時、正にそのことを強く感じさせられたのでした。
あらゆるものが、神的なものと切り離されていないではないか!、と。...
“神しか実在しない“、とはこういう意味合いのことを言っているのです。神と切り離されたものは、五井先生的には、“消えてゆく姿“ということなのでしょう。
又、そのようなことは、そう感じている私自身が居なければ、リアルに実在として感じられないことになるでしょう。
純粋に、リアルにそのことを感じている私は、肉体という実体を超えているはずなのです。
この私、私が実存している、というそのことこそが神と切り離されないものではないか?
いや、神と切り離されないあらゆるものも、私と切り離されないもののように感じられて来るではないか?
この意味で、“神、真我しか実在しない“ということにもなるのでしょう!...

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