ある全国的規模の、いや広く世界にも伝播している宗教的団体S会の国内の会員数は、実質十人くらいになってしまったのだそうです。
私がかつて関わっていた30年くらい前は、関西圏に4つばかりあったその支部のうち、私が所属していた一支部でさえ、男女合わせて(何故か男女で別れていた)そのくらい、いやそれ以上は居たかと思います。
私はこれまでそんなに有名でない、小規模の団体ばかり、いくつかの団体に関わってきましたが、どこも同じ状態じゃないかと推測しています。
これも浮き世の流れ...致し方のないことでしょう。
あの先生の、師の教え、道統は廃れてしまうのか?...それを後の人のために誤りなく伝えることが私の使命だったのではないか?...って、そんなものがあったら、今頃一人でここで好き勝手なこと書いて悦に入ってなどしてませんてi...
勿論、私は先師たちから人生を左右するほどの大きな道の伝えを受け、そのことをいくら感謝しても、したりないものを感じていますし、多分...ここでその感じたままのものが表わされているのでしょう。
それがどこまで誤りなく、正しいものかどうかは分かりませんが...
団体が正しいとしているものと合致しているか、どうかなど分からないし、第一(分かりきった話ですが)、各々の団体はそれぞれ違うことを説いているのだから、何が正しいかということに拘ったら、"しっちゃかめっちゃか"になるだけでしょう。
年末だし、ここで原点に戻ってみよう...もとより、私は団体との関わりを求めていたのではありません。
私一人の内なる求めから始まっているのです。その団体の教えを信じ、従おうとしたのでもありません。
神そのものを求めていたのです。神との接触、その直接体験...神をキリストと呼ぼうと、如来と呼ぼうと、それは形なき命である...それはその求める私自身と切り離されたものである訳がない...神体験とは実存体験と同じである...
それがどの団体に対するものであろうと、いやそれに関わろうと、関わるまいと、何十年月日が流れようと同じじゃあるまいか?
原点に立ち返る...それは時、ところを越えて一貫して息づいているものに立ち返るということに他なりません。これが蔑ろにされるなら、その団体が廃れようと無くなろうと感知するところではないでしょう。
とはいえ、私一人だけという有り様には勿論限界があり、そこに他との有機的交わりというものも求められてくるでしょうが、それもそうした原点、原態あってのものであるはずです。
一人一人の形なき命とのつながりあっての有機的つながりでしょう。
団体への寄りかかり、従属された思いからでなしに、私一人からという気概が無ければ、神とのつながりも他とのつながりも無いでしょう。
それは形として個人であっても、それは個人を超えたものに開かれたものとなり、又何らかの団体との関わりであっても、その生きたつながりは、各々の自由な精神から生まれるものです。
これが本来の意味での無教会の精神(いつからただの聖書研究会になったのか?)であり、それはキリスト教に限ったものでないのは言うまでもありません。
これがずっと私に息づいていた精神であり、だからこそ色々違う団体と関わることが可能だったのです。
私が特定の団体との関わりから離れて以来、知らないうちにそれらの衰退は加速して行っているようです。
これはその団体を超えて、そもそもそれが差し示していた、その向こうにある、一にしてすべてなる普遍的つながりが表に顕わとなる兆しではないかと思われます。
私がかつて関わっていた30年くらい前は、関西圏に4つばかりあったその支部のうち、私が所属していた一支部でさえ、男女合わせて(何故か男女で別れていた)そのくらい、いやそれ以上は居たかと思います。
私はこれまでそんなに有名でない、小規模の団体ばかり、いくつかの団体に関わってきましたが、どこも同じ状態じゃないかと推測しています。
これも浮き世の流れ...致し方のないことでしょう。
あの先生の、師の教え、道統は廃れてしまうのか?...それを後の人のために誤りなく伝えることが私の使命だったのではないか?...って、そんなものがあったら、今頃一人でここで好き勝手なこと書いて悦に入ってなどしてませんてi...
勿論、私は先師たちから人生を左右するほどの大きな道の伝えを受け、そのことをいくら感謝しても、したりないものを感じていますし、多分...ここでその感じたままのものが表わされているのでしょう。
それがどこまで誤りなく、正しいものかどうかは分かりませんが...
団体が正しいとしているものと合致しているか、どうかなど分からないし、第一(分かりきった話ですが)、各々の団体はそれぞれ違うことを説いているのだから、何が正しいかということに拘ったら、"しっちゃかめっちゃか"になるだけでしょう。
年末だし、ここで原点に戻ってみよう...もとより、私は団体との関わりを求めていたのではありません。
私一人の内なる求めから始まっているのです。その団体の教えを信じ、従おうとしたのでもありません。
神そのものを求めていたのです。神との接触、その直接体験...神をキリストと呼ぼうと、如来と呼ぼうと、それは形なき命である...それはその求める私自身と切り離されたものである訳がない...神体験とは実存体験と同じである...
それがどの団体に対するものであろうと、いやそれに関わろうと、関わるまいと、何十年月日が流れようと同じじゃあるまいか?
原点に立ち返る...それは時、ところを越えて一貫して息づいているものに立ち返るということに他なりません。これが蔑ろにされるなら、その団体が廃れようと無くなろうと感知するところではないでしょう。
とはいえ、私一人だけという有り様には勿論限界があり、そこに他との有機的交わりというものも求められてくるでしょうが、それもそうした原点、原態あってのものであるはずです。
一人一人の形なき命とのつながりあっての有機的つながりでしょう。
団体への寄りかかり、従属された思いからでなしに、私一人からという気概が無ければ、神とのつながりも他とのつながりも無いでしょう。
それは形として個人であっても、それは個人を超えたものに開かれたものとなり、又何らかの団体との関わりであっても、その生きたつながりは、各々の自由な精神から生まれるものです。
これが本来の意味での無教会の精神(いつからただの聖書研究会になったのか?)であり、それはキリスト教に限ったものでないのは言うまでもありません。
これがずっと私に息づいていた精神であり、だからこそ色々違う団体と関わることが可能だったのです。
私が特定の団体との関わりから離れて以来、知らないうちにそれらの衰退は加速して行っているようです。
これはその団体を超えて、そもそもそれが差し示していた、その向こうにある、一にしてすべてなる普遍的つながりが表に顕わとなる兆しではないかと思われます。
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