自分を愛し、受け入れることが出来ない人間は、他者も、思いを超えた、神的なものも愛し、受け入れることが出来ないでしょう。
この場合の自己愛なるものは、“自己中“的な自己愛とは全く異なるものです。
ただ、“私は在る“、という私そのものを愛し、受け入れることと違って、後者のそれは、例えば自分が如何に高く、優れたものであるかを誇示し、他者から承認してもらいたいという欲求の表れという場合が多いのです。
しかし、それは内心では、自分は業が深く、悪い、劣った人間だと感じていることの裏返しであって、本当には自分を愛しておらず、むしろ自己嫌悪の状態になっていたりするのです。
こういう人は容易く、自分より高きに達していると信じる他者に迎合し、それに権威を与え、隷従してしまうのです。
何が自分にとって真実か、という問題に突き当たっても、従属意識が強く、自分自身で内省することが出来ません。権威に対して疑念を向けることすら出来ないのです。
彼が信じる神というものは、当然のことながらその絶対権威から来るものであり、自己の内奥に息づき、照らされるものではありません。自己実存と切り離されない現存する神では無いということです。
彼はこのように自己否定の思いに囚われていて、自分自身の現実を、この現実世界を受け入れることが出来ません。
物質偏重の、相克の絶えない不調和な世界は、やがて崩壊するであろうことを信じていて、その後に開かれるであろう、霊的な、調和に満ちた理想世界を思い描いているのです。つまりこの現実世界は否定されているのです。
しかし(そう思いたい気持ちも分かるが)、自分の人生で幸福に与ったということは無かったのでしょうか?...もし、至福の体験というものがあったとしたら、それは正にこの現実世界において与ったのであり、この世に生を享けたことに依るのではないでしょうか?
それを否定することは、その導き主である神を否定することに等しいと言わねばなりません。
この世で幸福を与れない、認められない人間は、多分あの世でも、未来世界でもないでしょう!
それは現実、現存を受け入れられない、ということに尽きるのです。
神的なもの、神も本当には、信じ、受け入れられていない...だから、容易くサタンや闇の勢力など真偽の分からない存在を信じ込んでしまうのです。(私には、自分を愛し、神を愛することを強調している教師を信奉しながら、このような心的状態になってしまう人間が居るということが全く分からないのです)
自分を本当に愛し、受け入れられずに、どうして自分が救われ、目覚め、幸福に与ることが出来るでしょうか?
いいや、言い方を変えねばならないでしょう!
自分を本当に愛し、受け入れることこそが、救われであり、目覚め、神と一つになることなのであり、この現実世界に調和をもたらすことにつながることなのではないか?!
これは、全く最初にして最後のことと言っていいでしょう!...
この場合の自己愛なるものは、“自己中“的な自己愛とは全く異なるものです。
ただ、“私は在る“、という私そのものを愛し、受け入れることと違って、後者のそれは、例えば自分が如何に高く、優れたものであるかを誇示し、他者から承認してもらいたいという欲求の表れという場合が多いのです。
しかし、それは内心では、自分は業が深く、悪い、劣った人間だと感じていることの裏返しであって、本当には自分を愛しておらず、むしろ自己嫌悪の状態になっていたりするのです。
こういう人は容易く、自分より高きに達していると信じる他者に迎合し、それに権威を与え、隷従してしまうのです。
何が自分にとって真実か、という問題に突き当たっても、従属意識が強く、自分自身で内省することが出来ません。権威に対して疑念を向けることすら出来ないのです。
彼が信じる神というものは、当然のことながらその絶対権威から来るものであり、自己の内奥に息づき、照らされるものではありません。自己実存と切り離されない現存する神では無いということです。
彼はこのように自己否定の思いに囚われていて、自分自身の現実を、この現実世界を受け入れることが出来ません。
物質偏重の、相克の絶えない不調和な世界は、やがて崩壊するであろうことを信じていて、その後に開かれるであろう、霊的な、調和に満ちた理想世界を思い描いているのです。つまりこの現実世界は否定されているのです。
しかし(そう思いたい気持ちも分かるが)、自分の人生で幸福に与ったということは無かったのでしょうか?...もし、至福の体験というものがあったとしたら、それは正にこの現実世界において与ったのであり、この世に生を享けたことに依るのではないでしょうか?
それを否定することは、その導き主である神を否定することに等しいと言わねばなりません。
この世で幸福を与れない、認められない人間は、多分あの世でも、未来世界でもないでしょう!
それは現実、現存を受け入れられない、ということに尽きるのです。
神的なもの、神も本当には、信じ、受け入れられていない...だから、容易くサタンや闇の勢力など真偽の分からない存在を信じ込んでしまうのです。(私には、自分を愛し、神を愛することを強調している教師を信奉しながら、このような心的状態になってしまう人間が居るということが全く分からないのです)
自分を本当に愛し、受け入れられずに、どうして自分が救われ、目覚め、幸福に与ることが出来るでしょうか?
いいや、言い方を変えねばならないでしょう!
自分を本当に愛し、受け入れることこそが、救われであり、目覚め、神と一つになることなのであり、この現実世界に調和をもたらすことにつながることなのではないか?!
これは、全く最初にして最後のことと言っていいでしょう!...
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