人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神とは最愛のもの

2023-12-11 09:46:22 | 
精神的な道に限らず...というか、これまでそういうことに囚われがちだったのですが、私のすべての人生は、神的なものと共にあることを抜きにはあり得ないと言えるのです。
神というのは、今でもよく使われているように、”神っているもの”、”何かが降りて来た”ようなことです。(これらの言葉に、今の時代のある傾向というものを感じずにおれません)
ただ、私の場合は、そういうものを漠然と感じている訳じゃなくて、”あーっ!、又思っただけで私のハートが射抜かれた、ロックされた!”、と、その実体は分からないが、具体的に感じていることを日夜綴っている次第なのです。
私にとって神とは最愛のもののことです。最愛のものというのは逆説的ですが、必ずしも自分がそう”思っているもの”じゃありません。
何故ならば、それはいつもシツコク言うように、思いを超えたものだからです。だからその出会いというものは、全く思いがけないことなのです。
ただ、出会った瞬間に分かります。自分はその前にコッバミジンになってしまう!
”何もかも自分が思っていたものと違っていた!”...
だから、その実体がどういうものだろうと、どうでもいいことなのです。
”それは、神か?、いやひょっとしたら悪魔か?”...それもどうでもいい!
惹かれてやまないもの、愛、平安がある!...この今の運命に任せるより選択の余地が無い!
ああだろうか、こうだろうかとやってるうちは、思っている自分がそうしているだけ、ということ...彼は人生の最良の瞬間、神との出会いを知らないだけなのです。
神は、祈りや瞑想と結び付けられるものですが、そこには難しい理論もテクニックもありません。それらは、人によって向き、不向きというものがあるし、時が経つと適応出来なくなりますし、何よりも自分が考えたり、やらなければなりません。
最愛のものを前にするということは、そのために意志努力をするなんてこた、ヤボというものでしょう?
それらを在らしめる、そのものを頂くことより別に子細は無いのです。
ふと思う、思わされる意識されるということがあるだけ...全く無理なく、自然に”行われる”だけなのです。
最愛のものだから、どうしたってそうならざるを得ないのです。
一度、そういう決定的な出会いをしたら、そのものとの回路が開かれるようになり、いつでもどこでもロックされちゃうようになります。
しょっちゅうそうなると、大概思念で習慣化されるのが普通なのですが、いやあ、こりゃあ、いつだって思いがけないことですよ!
思いがけない出会い...誰でも本心から望めば、きっと臨んでくるでしょう?
それは、自分の意志努力でするものだと思いますか?...最も愛するものとの出会いなのに?
本心から望めば、もうそこに愛、安らぎが感じられるでしょう?
ということは、望むことと臨むことは一つのもの、元々最愛のもの、神と自分は一つのものということなのではないでしょうか?!...


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