"人生の裏側に踏み入れると、そこには愛、リアリティそのものとしか言いようのないものを目の当たりにする..."
何てことを私も言い表したりするのですが...ところで愛とかリアリティってそも何でしょうか?
これが実は...分かりませんi
だから、"そうとしか言いようがない"、とか"そのものだ"とか言って誤魔化すしかないのですi?
ただこうは言える...何が愛で、何がリアリティだかは分からないけど、それを目の当たりにすると、それまで愛と思っていたもの、リアルなものと思っていたものが、まさに思っていたものに過ぎないということが知らされるのです。
これは、本当の自分、真我というものについても言えることです。
愛とは何ぞや?、リアリティとは?、真我とは? そのもっともらしい説明ほどウソっぽいものはありません。
これはどういうものなのか? どういう意味か?...と知ろう、分かろうと追求しても絶対に捉えることは出来ないのです。
仮に何らかの形でその有り様、意味が分かったとして、これは例えば空気とは、"こうこうこれこれで"という風に、納得出来るように分かる、ということですが、それこそ大ギマンという他無いでしょう。
愛というものがそのギマンに取り入られるや、愛は忽ち消滅してしまうでしょう。
愛やリアリティというものは、実体があるからとか、証明出来たとかでは、決して全的に頷くことが出来ないのです。
ものが分かったとか、知ったとかいうのは、大体がこういう在り様で受容されているのではないでしょうか?
つまり理屈は分かっても、そのものには直に触れることは出来ないのですi
愛やリアリティという実体があって、それを分かろうとする自己があるのではなく、その自己と切り離されてはあり得ないのです。
自己と一枚になっているものです。
そのものと真我は一つのものなのです。
上記したように、分別智でそのものを追い求めることの虚しさについては、皆きっと分かっているのでしょう?
影を追い求め続けるようなことで、草臥れることですからね。
それでも、そのコトワリが分かっていても、我々は本性から、そうとは意識されずとも、そのものを追い求めずに居られないものでしょう?
何故ならば、惹かれてやまないものだから...理屈、意味付けを超えて求めずにおれないものだから...
そして、誰でもがその"匂い"というものは知らされているハズのものでしょう。
意味付けとか、意義付けなどから離れてみたならば...私など寝ている間に与っていることも、ちょいちょいあります。
惹かれてやまないものは、こちらから捉えようとするのでなく、捉えられて始めて分かることなのです。
そのうちでも、追い求めているのは、愛とリアリティについてのものでしょう。
その何となく意識にかすめているものは、神的なものなのかも分かりません。
真我については、分別に絡まれた自分からは、本当の自分のことに意識が向けられることは中々無いものだから...
そして、愛とリアリティは、自己から分離したもののように意識されるようです。
ここに、この二元で生きていることの本質が見えてきそうです。
それは、この生での我々は、"邂逅"、"和合"というものを求めずにおれない、ということなのでしょうか?
惹き付け合うものの真実...愛とリアリティと真我の真実...
何てことを私も言い表したりするのですが...ところで愛とかリアリティってそも何でしょうか?
これが実は...分かりませんi
だから、"そうとしか言いようがない"、とか"そのものだ"とか言って誤魔化すしかないのですi?
ただこうは言える...何が愛で、何がリアリティだかは分からないけど、それを目の当たりにすると、それまで愛と思っていたもの、リアルなものと思っていたものが、まさに思っていたものに過ぎないということが知らされるのです。
これは、本当の自分、真我というものについても言えることです。
愛とは何ぞや?、リアリティとは?、真我とは? そのもっともらしい説明ほどウソっぽいものはありません。
これはどういうものなのか? どういう意味か?...と知ろう、分かろうと追求しても絶対に捉えることは出来ないのです。
仮に何らかの形でその有り様、意味が分かったとして、これは例えば空気とは、"こうこうこれこれで"という風に、納得出来るように分かる、ということですが、それこそ大ギマンという他無いでしょう。
愛というものがそのギマンに取り入られるや、愛は忽ち消滅してしまうでしょう。
愛やリアリティというものは、実体があるからとか、証明出来たとかでは、決して全的に頷くことが出来ないのです。
ものが分かったとか、知ったとかいうのは、大体がこういう在り様で受容されているのではないでしょうか?
つまり理屈は分かっても、そのものには直に触れることは出来ないのですi
愛やリアリティという実体があって、それを分かろうとする自己があるのではなく、その自己と切り離されてはあり得ないのです。
自己と一枚になっているものです。
そのものと真我は一つのものなのです。
上記したように、分別智でそのものを追い求めることの虚しさについては、皆きっと分かっているのでしょう?
影を追い求め続けるようなことで、草臥れることですからね。
それでも、そのコトワリが分かっていても、我々は本性から、そうとは意識されずとも、そのものを追い求めずに居られないものでしょう?
何故ならば、惹かれてやまないものだから...理屈、意味付けを超えて求めずにおれないものだから...
そして、誰でもがその"匂い"というものは知らされているハズのものでしょう。
意味付けとか、意義付けなどから離れてみたならば...私など寝ている間に与っていることも、ちょいちょいあります。
惹かれてやまないものは、こちらから捉えようとするのでなく、捉えられて始めて分かることなのです。
そのうちでも、追い求めているのは、愛とリアリティについてのものでしょう。
その何となく意識にかすめているものは、神的なものなのかも分かりません。
真我については、分別に絡まれた自分からは、本当の自分のことに意識が向けられることは中々無いものだから...
そして、愛とリアリティは、自己から分離したもののように意識されるようです。
ここに、この二元で生きていることの本質が見えてきそうです。
それは、この生での我々は、"邂逅"、"和合"というものを求めずにおれない、ということなのでしょうか?
惹き付け合うものの真実...愛とリアリティと真我の真実...
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