欧米での禅の普及は、我々日本人の想像を超えたものがあるようですね。
ノンデュアリティの流行もおそらく、禅の下地があってのものだったのでしょう。
で、日本を代表する宗教というのは、禅仏教と観られているようです。
これって、我々日本人の感覚としてはどうなんですか? へえ?
御存知のように日本には仏教各派があって、禅宗ばかりじゃないですね。
ちなみに私の家の宗派は曹洞宗ですが、これが実に少数派なのです。
学生の頃周りに聞いた範囲で、圧倒的に多いのは真宗だったと思います。
欧米でこのような偏った観方をされているにも関わらず、”どうしてくれるんだ鈴木大拙さん!”なんて話はあまり聞かないのは、浄土系の信仰が日本に浸透しているからなんでしょうか?
浄土信仰は、既に奈良時代に我が国にもたらされ、鎌倉時代に浄土宗、真宗が起こされる以前から民衆の間に浸透していたことを考えると、ほとんど武家社会に限定されて広まった禅宗系に比べて、ずっと我が国に馴染みが深かったと言わざるを得ないと思います。
称名念仏(それ以前は文字通り仏を念じる観想法のような行)というものが定着したのは、法然上人以降からですが、実に画期的なものだったと思います。それはごくシンプルに広く大衆に”祈ること”を根付かせたものと言えるでしょう。
平安時代から広まった所謂加持祈祷のように、何やら複雑で俗信と結びつくものでなく、救済という眼目のみならず悟道という事も踏まえたことを「南無阿弥陀仏」の名号に集約させたのです。
これが後の親鸞上人に至ってより内省的になり、行としての念仏がよりシンプルに、日常生活に密着したものになりました。
私は、勿論無宗派ですので、どの祈り文句でなければならない…などという事は言いません。
ただ、この念仏の”阿弥陀仏に帰依します”という意味には、実に浄土仏教を超えた普遍的な内実が込められています。
阿弥陀仏とは、無量寿、無量光仏です。永遠の命、遍く通る光…無碍光如来。
それは人間の内奥…真人、神人にはこのような永遠なるものが綾なしていることを伝えています。
多くの宗教でそれは救世主の位格として説かれてきました。
浄土宗系では単純にそれは親しみをもって”お光”とも言われます。光は闇を照らします。
闇の中に居たら闇は分かりません。闇が分からなければ光も分かりません。
宗教、スピ界などで、自我を超えようと、真我なるものに一生懸命気付こうとしても、所詮それは自我の独り相撲の堂々巡りではありませんか?
自我は自我を超えたものの照射によって明るみになり、そこで限界を示されることにより、超え出たものを示されるのです。
魂の目覚めとはお光によって自己が射抜かれることと言ってもいいです。
よく禅などで”見るものと見られるものは一つ”と言われますが、それは見ている対象と自己が一つになるという事より、根本的な事は自己を超えた光に照射される(見られる)と、自己がそのものと一つになるという事でしょう。
それは自己が自己を超えようとする先に、自己を超えたすべてを見通す眼差しが向けられている、という事なのです。
それはもとより、自己を超えたものへの祈りにより開かれるとしか言いようが有りません。
人間には自覚している、いないに関わらず本来、その魂のみ親と結びつくという希求が有る筈なのです。
それは子としては、親を慕い求めるようにそのように促されるのですが、親として、あちらからハタラキかけるものというのが、浄土仏教で、本願と言われているものだと思います。
何も本願について言い伝えられていることを宗旨だからと言って、やみくもに信じてもしょうがないと思います。
本当に自己の内なる求めてやまない願い…この催しはそもどこから来るのか…このことをいい加減にして人任せの信仰に立てこもっても、生きたものにはならないのではありませんか?
他力本願にも表と裏が有るのです。
ノンデュアリティの流行もおそらく、禅の下地があってのものだったのでしょう。
で、日本を代表する宗教というのは、禅仏教と観られているようです。
これって、我々日本人の感覚としてはどうなんですか? へえ?
御存知のように日本には仏教各派があって、禅宗ばかりじゃないですね。
ちなみに私の家の宗派は曹洞宗ですが、これが実に少数派なのです。
学生の頃周りに聞いた範囲で、圧倒的に多いのは真宗だったと思います。
欧米でこのような偏った観方をされているにも関わらず、”どうしてくれるんだ鈴木大拙さん!”なんて話はあまり聞かないのは、浄土系の信仰が日本に浸透しているからなんでしょうか?
浄土信仰は、既に奈良時代に我が国にもたらされ、鎌倉時代に浄土宗、真宗が起こされる以前から民衆の間に浸透していたことを考えると、ほとんど武家社会に限定されて広まった禅宗系に比べて、ずっと我が国に馴染みが深かったと言わざるを得ないと思います。
称名念仏(それ以前は文字通り仏を念じる観想法のような行)というものが定着したのは、法然上人以降からですが、実に画期的なものだったと思います。それはごくシンプルに広く大衆に”祈ること”を根付かせたものと言えるでしょう。
平安時代から広まった所謂加持祈祷のように、何やら複雑で俗信と結びつくものでなく、救済という眼目のみならず悟道という事も踏まえたことを「南無阿弥陀仏」の名号に集約させたのです。
これが後の親鸞上人に至ってより内省的になり、行としての念仏がよりシンプルに、日常生活に密着したものになりました。
私は、勿論無宗派ですので、どの祈り文句でなければならない…などという事は言いません。
ただ、この念仏の”阿弥陀仏に帰依します”という意味には、実に浄土仏教を超えた普遍的な内実が込められています。
阿弥陀仏とは、無量寿、無量光仏です。永遠の命、遍く通る光…無碍光如来。
それは人間の内奥…真人、神人にはこのような永遠なるものが綾なしていることを伝えています。
多くの宗教でそれは救世主の位格として説かれてきました。
浄土宗系では単純にそれは親しみをもって”お光”とも言われます。光は闇を照らします。
闇の中に居たら闇は分かりません。闇が分からなければ光も分かりません。
宗教、スピ界などで、自我を超えようと、真我なるものに一生懸命気付こうとしても、所詮それは自我の独り相撲の堂々巡りではありませんか?
自我は自我を超えたものの照射によって明るみになり、そこで限界を示されることにより、超え出たものを示されるのです。
魂の目覚めとはお光によって自己が射抜かれることと言ってもいいです。
よく禅などで”見るものと見られるものは一つ”と言われますが、それは見ている対象と自己が一つになるという事より、根本的な事は自己を超えた光に照射される(見られる)と、自己がそのものと一つになるという事でしょう。
それは自己が自己を超えようとする先に、自己を超えたすべてを見通す眼差しが向けられている、という事なのです。
それはもとより、自己を超えたものへの祈りにより開かれるとしか言いようが有りません。
人間には自覚している、いないに関わらず本来、その魂のみ親と結びつくという希求が有る筈なのです。
それは子としては、親を慕い求めるようにそのように促されるのですが、親として、あちらからハタラキかけるものというのが、浄土仏教で、本願と言われているものだと思います。
何も本願について言い伝えられていることを宗旨だからと言って、やみくもに信じてもしょうがないと思います。
本当に自己の内なる求めてやまない願い…この催しはそもどこから来るのか…このことをいい加減にして人任せの信仰に立てこもっても、生きたものにはならないのではありませんか?
他力本願にも表と裏が有るのです。