宗教的な道、特に仏教方面などでは、空になる、無になる、無念無想の境地になることがその修行の目的に据えられたりします。
だけど本当に思いというものが何にも無くなってしまえば、普通に生きていけなくなるのは、ちょっと考えれば分かることでしょう。多分植物人間のようになってしまうと思いますよ。
だから、ただ、無念無想(これらの言葉には多分に誇張がある)になればいいってもんじゃない、ってことは分かりきったことでしょう。
これは、雑念から離れること、特に宗教的な道では、多く“自我性、我執“にまつわる思いから離れることと関連付けられているはずなのです。
そこで、例えば、”私は、無念無想の境地になりました~”、なんて自分を誇示するような言葉を聞かされたらどう感じるでしょうか?
それこそは、自我性の思いの最たるもの、自己顕示欲の表れが感じられてこないでしょうか?
おおよそ、そこには謙虚さというものが感じられません。
しかし、何ごとでもそうですが、こういうことは、“べからず式“の倫理道徳のみからは、そこに横たわる問題は明らかにならないでしょう。
何故、自分から“空になった、無になった“、という言葉に鼻をつまみたくなるのか?...自分からはそんな境地にはなれないからではありませんか?
いや、私自身に即してみても...なれる訳がありません!、”なった!”というのは、そう思っているだけです。(そう思いたいという思いはある、それが我性なんだ!)
これは、いつも言うように、そうさせるものにあってそうなる、ということなのです。
宗教哲学者の故.滝沢克己先生は、インマヌエル(神と共にある)であることが、現事実である、と述べられております。
先生は、神というものをはっきり打ち出しているようですが、これは、いつも言っている、“現臨にあること“と実に通うものを感じます。
神というものに囚われる必要はありませんが、そのように自己を超えたもの無しに、空にも無にもなりようが無いのです。というよりそのものにある、ということが思いを超えた事態になっているということなのです。これは、仏教的に”法“と言っても同じでしょう。
だから、どこまでもこの思われた私でなく、そのものに帰せられるものなのです。
私はそのものと切り離されては実存出来ない、という現事実がある!
私が空に、無になる、悟るということでなく、それが顕わになるということなのです。
だけど本当に思いというものが何にも無くなってしまえば、普通に生きていけなくなるのは、ちょっと考えれば分かることでしょう。多分植物人間のようになってしまうと思いますよ。
だから、ただ、無念無想(これらの言葉には多分に誇張がある)になればいいってもんじゃない、ってことは分かりきったことでしょう。
これは、雑念から離れること、特に宗教的な道では、多く“自我性、我執“にまつわる思いから離れることと関連付けられているはずなのです。
そこで、例えば、”私は、無念無想の境地になりました~”、なんて自分を誇示するような言葉を聞かされたらどう感じるでしょうか?
それこそは、自我性の思いの最たるもの、自己顕示欲の表れが感じられてこないでしょうか?
おおよそ、そこには謙虚さというものが感じられません。
しかし、何ごとでもそうですが、こういうことは、“べからず式“の倫理道徳のみからは、そこに横たわる問題は明らかにならないでしょう。
何故、自分から“空になった、無になった“、という言葉に鼻をつまみたくなるのか?...自分からはそんな境地にはなれないからではありませんか?
いや、私自身に即してみても...なれる訳がありません!、”なった!”というのは、そう思っているだけです。(そう思いたいという思いはある、それが我性なんだ!)
これは、いつも言うように、そうさせるものにあってそうなる、ということなのです。
宗教哲学者の故.滝沢克己先生は、インマヌエル(神と共にある)であることが、現事実である、と述べられております。
先生は、神というものをはっきり打ち出しているようですが、これは、いつも言っている、“現臨にあること“と実に通うものを感じます。
神というものに囚われる必要はありませんが、そのように自己を超えたもの無しに、空にも無にもなりようが無いのです。というよりそのものにある、ということが思いを超えた事態になっているということなのです。これは、仏教的に”法“と言っても同じでしょう。
だから、どこまでもこの思われた私でなく、そのものに帰せられるものなのです。
私はそのものと切り離されては実存出来ない、という現事実がある!
私が空に、無になる、悟るということでなく、それが顕わになるということなのです。