人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨という現事実がある

2023-04-21 09:38:50 | 現臨、ハタラキ
宗教的な道、特に仏教方面などでは、空になる、無になる、無念無想の境地になることがその修行の目的に据えられたりします。
だけど本当に思いというものが何にも無くなってしまえば、普通に生きていけなくなるのは、ちょっと考えれば分かることでしょう。多分植物人間のようになってしまうと思いますよ。
だから、ただ、無念無想(これらの言葉には多分に誇張がある)になればいいってもんじゃない、ってことは分かりきったことでしょう。
これは、雑念から離れること、特に宗教的な道では、多く“自我性、我執“にまつわる思いから離れることと関連付けられているはずなのです。
そこで、例えば、”私は、無念無想の境地になりました~”、なんて自分を誇示するような言葉を聞かされたらどう感じるでしょうか?
それこそは、自我性の思いの最たるもの、自己顕示欲の表れが感じられてこないでしょうか?
おおよそ、そこには謙虚さというものが感じられません。
しかし、何ごとでもそうですが、こういうことは、“べからず式“の倫理道徳のみからは、そこに横たわる問題は明らかにならないでしょう。
何故、自分から“空になった、無になった“、という言葉に鼻をつまみたくなるのか?...自分からはそんな境地にはなれないからではありませんか?
いや、私自身に即してみても...なれる訳がありません!、”なった!”というのは、そう思っているだけです。(そう思いたいという思いはある、それが我性なんだ!)
これは、いつも言うように、そうさせるものにあってそうなる、ということなのです。
宗教哲学者の故.滝沢克己先生は、インマヌエル(神と共にある)であることが、現事実である、と述べられております。
先生は、神というものをはっきり打ち出しているようですが、これは、いつも言っている、“現臨にあること“と実に通うものを感じます。
神というものに囚われる必要はありませんが、そのように自己を超えたもの無しに、空にも無にもなりようが無いのです。というよりそのものにある、ということが思いを超えた事態になっているということなのです。これは、仏教的に”法“と言っても同じでしょう。
だから、どこまでもこの思われた私でなく、そのものに帰せられるものなのです。
私はそのものと切り離されては実存出来ない、という現事実がある!
私が空に、無になる、悟るということでなく、それが顕わになるということなのです。

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原初の私

2023-04-19 08:43:47 | 詩的文章
「限りなく、私でありたいと思う。
どこまでも、私自身でありたいと思う。
その時の私とは一体誰か?
生まれてから今日までの意識の中の私ではない。
もっと、もっと原初の私である。
私の根源である」
(西村忠義主宰「シャンバラ」誌第127号より)

私は私が誰だか分からない
分からないまま生きている
生きているということは動いていること
ずっと同じままではないということ
同じままでないものがここにある!
生きよう、なろうとするのでなく!...
ただ、ただ、あるのだ!
善いも悪いもなく!
”ありなさい!、私はここにある!“...
声なき声がする...呼んでいる...
私が思い、為しているより先に...
私が私を呼んでいる...
本当の私が何であるかはどうでもいい!
何で分かり得ようか!
分かったところで、何でなり得ようか!
ただ、ただ、その呼び声の方に赴くだけ...
どうあっても、こうあっても、
人が、世の中がどう言っても...
合わせられる!
合いたい、会いたい!
どこまでも、そうありたい!
何が善くて、悪いかは分からないが...
そのものに合うことは、絶対に善いこと!
世の始めから!
だから...
合わずにおれない!...



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この世で一番恐れているもの

2023-04-17 09:17:39 | 独語
お前はどうして私を見ようとしないのか?
どうして私から目を背けようとするのか?
どうして私を無きものにしようとするのか?
私はお前がずっと恐れ続けているサタンなのか?
しかし...お前は私から逃れることはけっして出来ない!
お前が望んでいる、今より進化した世界、天国への道にずっと私は立ちはだかる
地獄の底まで私はお前に付いて行くぞ!
私を通り越してどこへ行こうというのか?
己が迷っている、光明を得ていないから、と悟りを目指そうとする
より進んだ自分になろうとする...
だから、ずっと的が外れたままなのだ!
今のまま、ありのままのこの瞬間...
たとえ、迷っていようと、苦悩にのたうち回っていようと...
何故、そのままのお前を見ようとしないのか?
受け入れようとしないのか?
そして、小賢しさで覆い隠し、無きものにしようとし、そこから進んだ方に変えようとする...
だから、一歩も進むことも、変わることもないのだ!
的がズレたままなのだから!...
お前の小賢しさでつくられた壁が的を見えなくする
光の当たる的を!
光の的はどこにある?
お前は本当に何を求めているのか?
この光ではなかったのか?
それとも永遠の闇?
お前が一番恐れている...
そう、サタンに聞いてみるがいい!
遅かれ速かれ、向き合わなきゃならないのだ!
今のこの一瞬だろうと
何度も何度も生まれ変わった後だろうと...
ほら...お前が幻のように思っている相手はいつだってそこに居る!
ちゃんと目を見開いて見てみろ!
そいつは...私だ!
私は一度だって的から外れたことは無いのだ!

この世で一番恐れているものは...一番会いたいもの!
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私であること、ないこと

2023-04-16 09:52:00 | 意識、照明
“意識を向ける、意識的になる“、なんていつも言ってますが、これは、“人間は、考え、為そうとするるものだ“、という大方の人間の在り方に合わせて、分かりやすく言っているまでです。
本当は、向けるも、なろうとするもなく、意識的であることが本来の人間の在り方なのです。
だから、そうなるためには、何らの意志的な努力も必要でないはずなのです。
“私が私であること“、に何でそんなことが要るのでしょうか?
このことを端的に言い表している言葉が、“サット.チット.アーナンダ(私であることは、意識的なこと、そしてそれは幸福なこと)“です!
これは、極めて私自身であること、私に直接つながっていることに他なりません。
悟りや目覚めに導かれるような人というのは、おのずとこのような意識状態になっているものと言えるでしょう。
ということは、死んだ後の世界のことや、前世や未来のこと、現実から離れた高次元のこと、地獄や陰謀論やなんやかんやのことには、意識が向かないものなのです。
それらは、私自身であることと直接関わらないこと、意識的でない、思念の世界のことだからです。
又、悟るためには、幾つものチャクラを開かなければならない、とか何段階ものレベルを通らなければ、何年も努力精進を重ねなければ...などのことも同様でしょう。来ない先のことは、私自身であることと何のつながりも無いからです。
何故、わざわざホントかどうか分からないにも関わらず、遠回りの条件付きの道を設える必要があるのだろうか?
どうして、何十年経っても、“そのうち悟りが開かれるだろう...“、なんて言い続けなければならないのか?
悟る云々は別として、こういう人は、“私でないこと“にばかり意識が向けられているからではありませんか?
もし、本気で悟りや神と一つになることを求めるのであれば(そういうことが習い性になっていること自体、本気でない、意識的になっていない、ということなのであるが)、そういう思いから離れるという意志的な努力が必要でしょう。
前言と違うことを言うようですが、思念世界のことは、それに合わさなければならないこともある、ということです。
そうでなければ、如何なる道を歩むにしても、根本がズレたものになるだけでしょう。
いやはや、宗教的、スピの道には、何と無駄が多いことか!
私が私であること、たったそれだけのことなのに!...
このことに本当に気付いたならば、前々言みたいなことを言うようですが、眠りから覚めるように、何らの努力も無しに、真我に目覚めることが出来る...かもしれません?...
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自力、他力、絶対力

2023-04-15 10:00:33 | 求道、探究
「仏教の他の多くの宗派、さらに原始経典までさかのぼってみますと、自力、他力ということはない」(玉城康四郎)

仏教では自力修行の自力、他力と分けられて捉えられていますが、自力というのは、主に浄土宗の方から、それも同門の一向専心の念仏からズレて、自力による”雑行”に赴いてしまう在り方に対して言われ出したのです。
どうも、念仏を数多く称えなければならないとか、如来を強く念じなければならない、などの念仏行に囚われてしまうことから、そういう傾向が生まれるようです。
ヨガや密教、禅など修行を伴う道は、自力の道ということが当たり前のように理解されているようですが、多くの宗教的回心、悟り体験に与った話に接して、その修行課程そのものがそれらに直結した、という例は、私はほとんど聞いたことがありません。
大体が思いがけないところからそれは”起こる”のであり、けっして”なし得る”ことではない、ということです。
それが言うまでもなく、思いを超えたものに与る、ということなのだから!...
一方で、他力の道では、多く神、如来の力を信じること、信心ということと結びつけられて理解されているようです。
勿論、信じるだけで、そういうものに与るということはありません。信じることが思い、観念である限りは!...だから、観念的信仰では、一向にモノにならず、飽き足らなくなって、断食だとか、何々メソッドとかの雑行に走る向きも出て来るのでしょう。もっとも、そうしたからって、何かが起こるということも無いでしょうが!...
どうもこのように、”自力だ、他力だ!”、と囚われるところには、もっとも肝心なこと、それ無くしては、すべて成り立たなくなるものが欠落してしまうようです。
何度か言っているように、自力という言葉について、それは本来、”おのずからなる力”のことを言い表しているものでしょう。
自力で為すことも、他力依存の観念的信心も超えて、自然(じねん)に生きて、ハタラく神的、如来の力...これを呼び覚ますことが第一義であるはずです。
自力、他力ということと関連付ければ、幾分、内在的に感じられるものが前者、超越的に感じられるものが後者ということは言えるでしょう。
どちらも自己実存と切り離されるものではありません。思いを超えて、それに先立ってあるもの...この意味で自力、他力を超えた絶対力という他はないでしょう。
ここには、禅的な自力行も、念仏の他力信心も超えられ、原始仏教をも超えた、原始の普遍性が顕わになるのではないでしょうか?...

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