人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

二つの”信じること”

2023-04-13 09:56:51 | スピリチュアル
「信念は、あなたがたに共通の場、コミュニティを与える。他にも同じような信じる人たちがいるから、あなたがたは、群れの、集団の一部になっていく。いったん集団の一部となったら、もう自分で考えるという必要がなくなる。...」
「信頼は知的な観念ではない。心がもっている一つの素質であって、頭のそれではない。...信頼には主義も教義も無い」
(バグワン.シュリ.ラジニーシ~OSHO「草はひとりでに生える」/泰流社刊)

信じること。...人間は信じること無しでは生きて行くことが出来ません。
いつ、北方あたりから核ミサイルが飛んでくるか分からない。街中を行けば、無差別殺人に巻き込まれるかも分からない。だけど”今日も何事もなく、穏やかに過ごせること”、を信じなければ普通に生活など出来ません。
宗教的な人でしたら、”神を信じないと...”、などと言うかもしれませんが、そんなもの信じなくたたって、普通には死にゃしません!
大体、宗派によって異なる神なんて信ずるに足らないものだし、そういうのは信じたい人が信じていたらいいものであって、生きることそのものを第一義にしたならば、無駄でしかないでしょう。
このように、”信じること”には、信仰というものに代表される、信念、信条といったものが多く思い浮かぶようです。
それは、ほとんどの場合、本当に信じるべきものなのか、有るのか無いのか、真か偽か、確信など持てないものと言えるでしょう。死後の世界のこと、霊界の諸相のことなど...信じない人間には全くどうでもいいことなのです。
自分には、確信など持てない、だけど”信じたい”、という念から、エライ人が、その他の人たちが言っているから、という理由で信じ込んでしまう...人の言葉を信じている訳です。
かかる信じ方は、OSHOが言うように、これは集団におもねった、主体性を欠いた有り様と言えるでしょう。
しかし、同じ”信じること”、と言われることでも、普段は意識されないもので、生きることと直結した有り様があります。
例えば、産まれたての赤ちゃんは、母親の優しいぬくもりに触れて、安心を得られるような...
先にも言ったように、全く安心というものが無い人生というものをあなたは考えることが出来るでしょうか?...
この安心というものは、何にも無い、感じないというところには生まれないものです。
”オギャア”、と産まれて、すぐ母親の愛に触れることが出来るように、心安らかにさせるものがある...これ、眠りに落ちる時には誰しもが感じられるのではないでしょうか?
我々は意識せずとも、それを信じて生きているのです。否、それは生かされていることからして、自明のことではありませんか?!
OSHOによれば、この信じる有り様は信頼ということです。信頼する心は、我々の本来性から来るもので、信じたい念とも、集団におもねる念とも関わらないものです。
要するに、思念を超えて、思念に先立ってあるものなのです。
観念的な神でなく、実存的な神と関わるものに他なりません。自分自身と切り離されたものでないのだから!...
それは、もっと意識すること、向ける(向けられるものがある!)ことによって深められるでしょう!

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待ち望み、ゆだねる

2023-04-11 09:31:01 | 祈りと瞑想
精神的な道には、悟りや目覚めなどを目的にした、数多の教え、方法があります。
いつも言っているように、私はそういうものは重視しておらず、明示してこなかったのです。
祈ることを除いては!
だからか、逆に何故、諸々の方法は伝えても、祈ることは疎かにされていたりするのか、と思ってしまうのです。
自分を超越した神なんか認められないということなのでしょうか?...別に信じまいと、認めまいと構わないでしょうが...
しかし...有神論や神信仰といったものから離れてみても、私にはどうしても、どうあっても感じずにおれないものがあるのです。
それは、こちら側からその目的とされる方への道づけとなる方法といったものを超えて、その自己を超えた方へと、こちらを促し、誘い、導かんとするあるハタラキのことです。
私が多く”神、神的なもの”、と言っているものはこのものに他なりません。
私には、どうしても、こうしてもこのもの無しにそうした道そのものが成り立たない、と感じてならないのです!...一体どうして歩み続けて居られるんですか?、と。
例えば、自分の思い、力で思いを超えることが出来ない、それはこのものによって開かれる、ということ一つ(これが大きなこと)とっても分かりそうなものではありませんか?
自力修行を重んじる向きは、それは我々の叡智、仏智の為せるものだ、と言うかもしれませんが、それは日常の思いを超えたものであるのは同じでしょう。
超越的な神だろうと、内在的叡智だろうと、そのものを待ち望むより、道は開かれてこないのではありませんか?
待ち望む...それが、即ち祈りということです。
しかし、私には何にも無い、何の“ケ”も無いものを待ち望む、という感じはしてこないのです。
意識を向ける、といつも言ってますが、何にも無いものには向けられないのです。
それは、こっちの思いに先立ってあるもの...それが、あちらからこちらにそっちの方へと仕向けよう、導こうとするあるものなのです。
待ち望もうとした時には、その感じは既に伝わって来る...
要するに、道というのは、それにゆだねる、任せ切るに然くはない、ということになるでしょう。
その上で、自分の考えで、“いや、そんなことより、こっちには、この方法がある!”、と固執したりするのは、却ってその道を塞いでしまうことになるのではないでしょうか?
自分の思いを超えて、又その前からあるものには、待ち望み、ゆだねるしか無い!
思いの外にあるものなんか、何だか分からないものには、ゆだねられない!、ですって?
それはだから、自分の思いの他、愛を、幸福に感じてやまないものがあるから、いつの間にかゆだねられてしまうことなのです...!
それは、こちらが祈るより先に祈らされている、ということなのでしょう?!
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いつの間にか

2023-04-09 09:22:00 | 祈りと瞑想
何か気持ちが塞いでしまう、思いに囚われてしまう...そういう時は、いつも言っているように祈ることに限ります。
そこで、”祈ったってどうなるってもんじゃない!”、っていうものが出て来たりする...それはそういう思い、ということです。
ここで、祈るとは、広く意識を神的なものに向ける、ということでもあり、どんな祈りの文句、形にも関わらないもののことを言っています。
自分にもっとも親しみがあり、フィットするものがいいでしょう。
私も、そういう思いに囚われてしまうこともあります。今でも!...きっと、修行が足りないのでしょう?
それで、修行の進んだ、悟ったような人間のフリなどしてたってしょうがないのです。それだから、いつまで経っても思いを超えたものに開かれないのです。
それは、祈りが行というものに囚われてしまうからでしょう。
五井先生の道でも、”消えてゆく姿で世界平和の祈りをし続けていても、中々心が安らかにならない”、という人も居ますが、どこかそういう思いに囚われているところがあるようです。
自分の思い、力で思いが消えてゆく訳が無いのに...こういう祈り、行みたいなもので必ず事象がよくなる、幸福になる、悟れる...なんてことも思う必要などありません。そう思うだけだったら...だったら、あれこれ考えてないで、考えたら考えたままでいいから、祈ったらいい!
自分に合わないものを感じたら、少しそれから離れてみて、もっと自由な、広い心持ちで、自分が自然に惹かれる、フィットするものに変えてみる...それでは”み教え”に反して、救いの道から外れる?...だから、そういうのは思っているだけなのでは無いのか?
私自身の神そのものを信じないで、意識を向けないでどうするのか!
それから外れて、救いの道などある訳無いではないか!
とにかく祈ってみる、意識を向けることです。
すると...いつの間にか、思いから離れて、安らぎがもたらされる...
”いつの間にか”、ということは、思いを超えたところから、ということに他なりません!
祈ることと、思いが消えてゆくというのは別のことじゃ無いのです。
あらゆる思いを神の中に投げこむ...五井先生の教えの根本は、こういうところにあるのでしょう。
親鸞さん的には、”弥陀にたすけられ申すだけ...他に子細は無い!”、ということでしょう。
南無...アーメン...かむながらたまちはえませ...
祈りは数多あるようでも、根本的には一つしか無いのでしょう...。

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愛は夢じゃない!

2023-04-07 09:46:54 | 
夢の中に意中のひとが現れた時、普段そのひとを見ている、思っている時にも増して、深い愛を感じることはないでしょうか?
見たまま、思われたものでない愛!
”じんじん”と具体的に、リアルに自分の中に浸透してゆくような愛感!
こういう時こそ、その感じを意識してみるのです。
それは、意中のそのひとだけからは来ないということが分かります。
元々自分の内に息づいていたものが、呼び覚まされたように感じます。
それは、ただの本能的、快楽的情欲から来るものでは、けっして味わうことは出来ないものに違いありません。
”ああ...ずっとこのままの状態が続いていたならば、すべてのうえにこの祝福がもたらされるならば、戦争も不調和もなく、ただちに地上天国が開かれるだろうに!”
しかし...大概再び眠りに就いて、起きてみたら消えていたりして...そして、又終わりなき日常?
何故、夢の中でのそうした経験が、より深いものに感じられるのか?...それは、その日常の諸々の思いから離れているからでしょう。
所詮は夢の中のこと?...違いますよ!
夢の中だけじゃない!、覚めた後もじんじんとした感じは続いているのです。愛は夢じゃない!、現つつのこと!
そう、これには、神的な現臨感が伴っていたりするのです!...愛、平安...そこに遮るものは何も無い!
”囚われるな!”、という方が無理かもしれませんが、あまり意中のひとに囚われると、この本来的な愛の方に意識が向けられなくなるかもしれません。そのひとは特定のひととは限らないのです。
別に不貞なことになってる訳じゃないんだからいいでしょ?
あの天的な、本来的な愛というものこそ、何物にも代えがたいものなのです!
意中のひとは、その中に溶け込んでしまっているという感じです。
いや、私には愛するひとというのは、どうしてもあのひと、このひととか分けられないですね。それは、所有することが出来ないということなのです。
本来的な愛は一つ...最愛のものは対象を超えている!
逆のことを言えば...誰でもいい訳が無いだろう!
特定されたものでなくても一つ!...すべてで一つのものとしか言いようがありません。
情愛といったものに流されれば、その本来的なものは変質してしまうだろうけれど、ひとを愛することは、例えそれが実らないものであったとしても、それにつながる近道なのかもしれません。
この感じが芽生えたなら、それを一時の感情の表れや、夢の中のことだけにしないで、もっと意識してみる...さすれば、きっと終わりなき日常の中に消えることは無いでしょう!...

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人はそれを罪と言う

2023-04-06 09:40:56 | 独語
そんなに多くはないが、僕が本気で好きになった女性は(二人しか思い付かない)、純潔をとても大切にするひとだった...
数十年前知ったひとは、当時30代半ばくらいで、(あくまで噂だったけど)まだ男を知らないらしかった...
数年前、知ったひとは、まだ二十歳かそこらで、自分でそう言っていたが...あの羞じらいだ表情、とても演技のように見えなかった...(もし、そうならすべての女はバケモノだろう...)
彼女らから、全く同じような言葉が聞かれた!
”浮気?...そんなのゼッタイにあり得ません!、許しません!”
”もし、僕だったらどうかって?”
僕は...いや、すべての男を代表して言おう!...浮気をしないという誓いなんか守れない!、守れる訳ないよ!、男ってヤツあ、そういう罪な生き物なんだ!...そんなこと誓ってみせるヤツあ、みな偽善者なんだ!
これは、生理学上の、本能から来るものなんだ!...チクショウめ!、なんだ、この罪な突起物は!
だけどね、僕は偽善者で、こんなこと言う資格なんかとても無いけど、本気で好きになったひととの愛というものは、何物にも代えがたいという気持ちはある、分かるよ、ホントだよ!
それは、本能だとか、快楽に任せて、“むにゃむにゃ”...とかいうのとは違うよ!...そんなのでは与るべくもないもの、天国と地獄ほどの開きがあるだろうよ!...
確かめたことも無いのに、何故分かるのかって?...男というのは、想像のたくましい生き物なんだ!...
しかし、何故人はその愛を裏切ることを罪と言うのだろう...
女は知らないが、男は本能からそうなってんだから仕方無いじゃないか?
それにその愛だって冷めることだってある...僕たちは幸いそういうのは知らないけどね...”遂げた“ということが無いんだから...これは幸か不幸か?...
僕は、人のことは知らないが、一度本気で好きになったものが冷めたことは無いんだ!
その人との愛が冷めることはあるかもしれないけど、愛そのものが無くなることはきっと無いんだよ!
その愛を裏切ったり、無きものにしたりするのは...きっと罪なことなんだ!
罪の値は、それに与れなくなることだろう...何という不幸!
君が大切にしているもの、守っているものはとても尊いものだ!...僕は何か理屈なしで惹かれてしまうようなんだ!
そうだ、そうだ!、それは、かけがえのないものなんだ!
愛の無い”むにゃむにゃ”なんて!...チクショウめ、この突起物め!
男ってなんて罪な生き物なんだ!
一つの卵子には、一つの精子しか結ばれないんだと!...
ああ、なんという無駄な放出であろう!...大いなる無駄!
プリンセスの部屋への道はかくも遠いのか!
永遠の君...それは幻想なのだろうか?...しかし、僕の中にはずっと息づいているよう...
”それは、どっちの君かって?”
い、いやだから...男は罪な生き物なんだ!...

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