「信念は、あなたがたに共通の場、コミュニティを与える。他にも同じような信じる人たちがいるから、あなたがたは、群れの、集団の一部になっていく。いったん集団の一部となったら、もう自分で考えるという必要がなくなる。...」
「信頼は知的な観念ではない。心がもっている一つの素質であって、頭のそれではない。...信頼には主義も教義も無い」
(バグワン.シュリ.ラジニーシ~OSHO「草はひとりでに生える」/泰流社刊)
信じること。...人間は信じること無しでは生きて行くことが出来ません。
いつ、北方あたりから核ミサイルが飛んでくるか分からない。街中を行けば、無差別殺人に巻き込まれるかも分からない。だけど”今日も何事もなく、穏やかに過ごせること”、を信じなければ普通に生活など出来ません。
宗教的な人でしたら、”神を信じないと...”、などと言うかもしれませんが、そんなもの信じなくたたって、普通には死にゃしません!
大体、宗派によって異なる神なんて信ずるに足らないものだし、そういうのは信じたい人が信じていたらいいものであって、生きることそのものを第一義にしたならば、無駄でしかないでしょう。
このように、”信じること”には、信仰というものに代表される、信念、信条といったものが多く思い浮かぶようです。
それは、ほとんどの場合、本当に信じるべきものなのか、有るのか無いのか、真か偽か、確信など持てないものと言えるでしょう。死後の世界のこと、霊界の諸相のことなど...信じない人間には全くどうでもいいことなのです。
自分には、確信など持てない、だけど”信じたい”、という念から、エライ人が、その他の人たちが言っているから、という理由で信じ込んでしまう...人の言葉を信じている訳です。
かかる信じ方は、OSHOが言うように、これは集団におもねった、主体性を欠いた有り様と言えるでしょう。
しかし、同じ”信じること”、と言われることでも、普段は意識されないもので、生きることと直結した有り様があります。
例えば、産まれたての赤ちゃんは、母親の優しいぬくもりに触れて、安心を得られるような...
先にも言ったように、全く安心というものが無い人生というものをあなたは考えることが出来るでしょうか?...
この安心というものは、何にも無い、感じないというところには生まれないものです。
”オギャア”、と産まれて、すぐ母親の愛に触れることが出来るように、心安らかにさせるものがある...これ、眠りに落ちる時には誰しもが感じられるのではないでしょうか?
我々は意識せずとも、それを信じて生きているのです。否、それは生かされていることからして、自明のことではありませんか?!
OSHOによれば、この信じる有り様は信頼ということです。信頼する心は、我々の本来性から来るもので、信じたい念とも、集団におもねる念とも関わらないものです。
要するに、思念を超えて、思念に先立ってあるものなのです。
観念的な神でなく、実存的な神と関わるものに他なりません。自分自身と切り離されたものでないのだから!...
それは、もっと意識すること、向ける(向けられるものがある!)ことによって深められるでしょう!
「信頼は知的な観念ではない。心がもっている一つの素質であって、頭のそれではない。...信頼には主義も教義も無い」
(バグワン.シュリ.ラジニーシ~OSHO「草はひとりでに生える」/泰流社刊)
信じること。...人間は信じること無しでは生きて行くことが出来ません。
いつ、北方あたりから核ミサイルが飛んでくるか分からない。街中を行けば、無差別殺人に巻き込まれるかも分からない。だけど”今日も何事もなく、穏やかに過ごせること”、を信じなければ普通に生活など出来ません。
宗教的な人でしたら、”神を信じないと...”、などと言うかもしれませんが、そんなもの信じなくたたって、普通には死にゃしません!
大体、宗派によって異なる神なんて信ずるに足らないものだし、そういうのは信じたい人が信じていたらいいものであって、生きることそのものを第一義にしたならば、無駄でしかないでしょう。
このように、”信じること”には、信仰というものに代表される、信念、信条といったものが多く思い浮かぶようです。
それは、ほとんどの場合、本当に信じるべきものなのか、有るのか無いのか、真か偽か、確信など持てないものと言えるでしょう。死後の世界のこと、霊界の諸相のことなど...信じない人間には全くどうでもいいことなのです。
自分には、確信など持てない、だけど”信じたい”、という念から、エライ人が、その他の人たちが言っているから、という理由で信じ込んでしまう...人の言葉を信じている訳です。
かかる信じ方は、OSHOが言うように、これは集団におもねった、主体性を欠いた有り様と言えるでしょう。
しかし、同じ”信じること”、と言われることでも、普段は意識されないもので、生きることと直結した有り様があります。
例えば、産まれたての赤ちゃんは、母親の優しいぬくもりに触れて、安心を得られるような...
先にも言ったように、全く安心というものが無い人生というものをあなたは考えることが出来るでしょうか?...
この安心というものは、何にも無い、感じないというところには生まれないものです。
”オギャア”、と産まれて、すぐ母親の愛に触れることが出来るように、心安らかにさせるものがある...これ、眠りに落ちる時には誰しもが感じられるのではないでしょうか?
我々は意識せずとも、それを信じて生きているのです。否、それは生かされていることからして、自明のことではありませんか?!
OSHOによれば、この信じる有り様は信頼ということです。信頼する心は、我々の本来性から来るもので、信じたい念とも、集団におもねる念とも関わらないものです。
要するに、思念を超えて、思念に先立ってあるものなのです。
観念的な神でなく、実存的な神と関わるものに他なりません。自分自身と切り離されたものでないのだから!...
それは、もっと意識すること、向ける(向けられるものがある!)ことによって深められるでしょう!