人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛は世界を救う?

2023-07-21 10:59:37 | 
“愛は世界を救う!“、というのは謳(歌)い文句だけのものなのでしょうか?
しかし、救われたかどうかはともかく、人類の歴史を大きく変えることはあったと私は思っているのです。愛は革命的なのです!
もっとも愛というもの自体には変革させる力はないでしょうが、それを呼び覚ます引き金となり得るものと思われるのです。
具体的にそれは何であったかと言うと、封建社会からの脱却です。
いやそれは、“人々に自由化、民主化への目覚めがもたらされたから!“、ということは歴史の教科書なら書かれていることです。
しかし、そういう思潮が生まれる根源、人々の意識の動きのことは、歴史の表層のみからは伺うことは出来ません。
封建社会、暗黒時代からの脱却というものが如何に大きいものか?
今、私は自由な精神のもとにこれを書いています。どっかからの圧力に屈することもなく...封建社会のことなど想像だに出来ない!...それくらい大きいことなのですよ!
私は今、神的な愛を噛みしめ、溢れ出る喜びを抑えながら書いているのです!...愛の勝利だ!
実に今日当たり前のように、愛が語られ、歌われるようになったのは、この変革を通してのものだったのです!
しかし、革命に成功した人たちのほとんどはそういう自覚など持っていなかったでしょう。
その心の奥、意識に愛が息づいていたことがそれを促したのです。
これにはキリスト教精神の影響が大きかったと言えるでしょう。ヨーロッパ中世は勿論、間接的にはわが国でも...キリスト教のキの字も知らなくても、愛は語れるのです!
キリスト教がどうだとか、西欧化の行き過ぎだとか、色々意見もあるでしょう?
でも問題は、キリスト教や西欧がどうかではないでしょう。
愛があるかどうか...それに尽きるのです。
しかし...自由主義、民主主義、主義主張!...人間の思いというのは容易にその本来的愛から離れてイデオロギーに走ってしまうものですね。だって自由なんだからねえ? 
しかししかし...主義にトラワレたら自由も封建も共産も全体も同じになってしまいます。
ただ、自由、民主には、“個の尊厳“という精神があるのが救いでしょう。
“そうだ、個人主義だ!“...いや、この言葉からはそういうものを超えた響きが感じられます。
“個が“と“個において“の違いと言ったらいいでしょうか?
個において、というのは個だけということではないでしょう。個であって個でないような愛をそこに感じます。
よ~く考えてみられよ!...愛は個を超えているのです!
個が個のままでは愛など生まれてこないのです。たとえ、それが自己愛というものであっても...
個を超えているということは、思いを超えていることと同義です。
世界を救う愛とは神的なの愛しかないのでしょう。
だから、盛んにそのようなことが謳(歌)われているのでしょう?...至上の、永遠の愛というのはそういうものでしかないでしょう?
いやしかし、こう書いてきてこんなことが過るのです。
世界も人類もとっくに救われているんじゃないのか?、と!
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愛は不滅?

2023-07-19 09:42:13 | 
私は幼少の頃、複雑な家庭の中で育ったことで、豊かな家族愛を受けて来なかったということもあり、とても人生で愛に恵まれた、とは言えないようです。
しかし...これは形容的に言うのでなく、見えない、思いを超えた恩愛というものを感じない日は無いくらいなのです!
それを聞いて、奇異に感じる人も多いでしょう。“よほどこの人は想像力が豊かなんだな!“と思う人も居るかもしれません。そう思わせて、言わせておけばよい!
考えてもみられよ!、家族愛でも恋愛でもそれらは失われたり、憎しみに変わったりするものでしょう。
しかし、この愛というものは、一度も失われたことも、変質することも無く、益々深く、豊かになっていくんですよ!...だから“恩愛“と言わずにおれないのです!
“愛は不滅!“と、歌の世界などでは盛んに歌われたりしますが...
世の中では、そのように変質してしまったり、別な要素と結びついてその”本来性”を失っているものも愛と呼ばれたりしています。
例えば恋愛と結びつくのは性愛です。愛など無くてもそう呼ばれてます。
“本当の愛と性愛とはどう違うのか?“とある人に訊かれた時、私は明確に、”事が済んだ時に泡のように消えてしまうか、ずっとその愛を感じているか(その時失ったりして?)どうかだ!“と答えました。
その他、イデオロギー的なものと結びつく愛国、愛国精神、言葉は知ってるが私など一度も感じたことの無い愛社精神...世の中愛でないものが多すぎる!
混じりけの無い、愛そのもの、即ち実存的な愛は、この世では見い出されるべくも無いのだろうか?...
強いて、この本来的な愛に世で呼び慣わされているもので近いものを挙げるとしたら...それは母の愛かもしれません。
戦中、特攻隊員などが死を前にして出される言葉でもっとも多かったのは、“かあちゃん!“、というものだと言います。(“とおちゃん“では無いのですよ!、どうする?、オヤジ!)
私の場合もそうなるかもしれませんが、私は神的な愛というものを知ってしまったのです!...やっぱり?
何だかんだ言っても、私は母からの愛は受けていたのは間違いないのですが...しかし幼い頃のことであったりして、それが具体的にどういうものかは思い出せない、分からないのです。
ただ、どっかでずっと大人になってから受けた、その神的な愛と重ねられている感じもしているのです。
あるいは、まだ物心付かない時、母の愛と同時に、それを通してその本来的な愛を受けていたのかもしれません。
いや、確かに後に始めてそれに与った時、内奥に隠れていた、そうしたものが呼び覚まされたのです。
いずれにしても、それは愛そのもの...そのものは分けることが出来ません。
そしてこの本来的な愛は、親子であれ、異性とのものであれ、この世的な愛の在り方のベースとなり得るものです。それが最愛のものであるほど息づいていたものになるでしょう。
本来的とはそういうものなのです。そして本当に最愛なるものとは、それと切り離されるものではありません!
たとえ、世界が終わったとしても、この愛は失われることは無いだろう!
いやそれは、この世界が終わって始めて目の当たりにするものなのだろうか?...


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実存的な愛

2023-07-17 09:57:59 | 
あるブログを読んでいて、“愛というものは抽象概念である“、かのようなことが書かれていて一寸びっくりさせられました。
あらゆる言葉がそうであるように、抽象化され得るものには違いないでしょうが...
私は度々ここで、愛というものは、具体的に感じられるものだ、ということを言って来ました。そうでない愛などあり得るでしょうか?...
それのみならず、ここで重きを置いて語られるもの、神的なもの、霊なるもの、...具体的に感じられないものなど無いと言っても過言ではありません。
それらも愛と同様、容易く抽象的に捉えられてしまうものではあります。
勿論、物事を理解するにあたって抽象概念を用いることも必要ですよ。しかし、それは先験的な感覚あってのものであるのは言うまでもないでしょう。
愛という概念を知らなくても、それを感じない人など居るでしょうか?
そのブログ主も述べているように、愛という言葉、概念は明治時代に主として西洋からもたらされたものです。しかし、それ以前からわが国には、夫婦愛も兄弟愛、親子愛、神仏への愛も人々の内に息づいていたはずなのです。
そしてこの外来語は、それをさらに広く、深く、豊かなものに変えたということも確かなことでしょう。
それは、元々我々の内に息づいていたものをかく呼び覚ました、ということが言えます。
抽象的に考えるのでなく、愛を感じるのは言うまでもなく私自身であり、それは極めて実存的なものなのです。神、霊なるものと同様に!
そして又、実存的なものは、先のように容易く抽象化され、その具体的な生の在り様から切り離されるものの最たるものでしょう。
実存主義哲学などとうに死に絶えた感がありますが、古来から実存的ならぬ人間存在など在ったタメシなどありません。
私が実存的な神と言った場合、それは生きてハタラク神のことを言い表しているのです。
同じように、私がアリアリと、血肉に通うようにも具体的に感ずる愛とは、実存的な愛を置いてはあり得ません!
ブログ主が又言うように、歌の世界などでやたらと愛という言葉が安易に使われ過ぎているのも事実でしょう。
それだけに、一人一人のハートに向き合って、実存的な愛に目覚める必要があるでしょう。
愛そのものにパワーがあるようには私には感じられませんが...そこから人の人生を変える、計り知れないものに導かれるのは確かなことなのですから!...
抽象的に思い描かれただけの愛など死んでいる!...それを生きたものにするかどうかは、けだしそのように愛を思いによって捉えようとするか、それを超えた愛に捉えられるかどうか、ということにかかっているのでしょう...。
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思うことと起こること

2023-07-16 09:45:17 | 求道、探究
スピ関係のネットを見ていると、時折”思われた世界”のことと、”思いを超えた世界“のことを混同して語られているような表現に接することがあります。
例えば、”ありのままの自分を受けいれる“とか、”そのままでいい!“といった言葉などがそうです。
私も度々そういうことを言ったりしますが、ずっと読んでくださる方ならお分かりでしょうが、これは、”思いを超えたハタラキ“を受けること、それに在ることをベースにして言っているのであり、そのことを抜きにしたら話は浮いて、ズレてしまうしかないのです。
大体、思い、為そうとする人間がありのままを受けいれたり、そのままでいることなど出来るでしょうか?...”このままじゃいけない、何かしないと!“ってことになるんじゃないでしょうか?
いきなり不如意な、不幸な事態に見舞われたりでもしたら、普通感情が揺れ動いてしまって、そのままでいい訳なくなるでしょ!
自分の感情にウソはつけません!...しかし、仕事の場とか時と場合によっては感情を抑えなきゃならないこともあるでしょう。”感情的になってはいけないんだ!”、と!
しかししかし、抑えきれない感情の爆発が起こることもあるのです!
これは通常の“カンゲキ!“とか怒り、爆笑もんとか意志力との戦いレベルの問題ではありません。
覚醒体験にはしばしば付きものの、自己の内奥からの感情の爆発(大概は号泣という形で表れる)のことです。
これは起こるのであって、火山の爆発と同様、意志力など吹っ飛んで、誰も止めることは出来ないのです!
そういう事態を前にして、“感情的になるな!、冷静になれ!”、なんていうのは、全くズレた話という他ありません!...そうなったことの無い人間には絶対分からないでしょうが...
こんな場合、ありのままの自分を受けいれ、そのままで在るしかないのです。
これは極端な、分かりやすい例ですが...全く思っていたこと、思っていた自分でないことが起こる!...思いを超えたものに出くわすことで!
こうした爆発的なことは、通常一過性のものですが、そのものを受けたことが心の奥に、意識次元に刻印されることにより、あるいは祈りや瞑想などにより熟成されることを通して、そうした突出した在り様を通らずとも、日常生活のベースとなり、ありのままを受けいれることに“入る“ことも可能になるのです。
どっちみちそれは、“思いを超えたハタラキ“あってのものであるのは言うまでもありません!
このように宗教、スピ界隈では、思い、為そうとする世界と、それを超えた世界との識別があまりなされていないようなのです。
常識では考えられない、不如意な事態がいっぱい起きているというのに!...
起きていることに出くわさないとやっぱり分からないのでしょう?...
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現臨は一の如し

2023-07-15 09:40:28 | 現臨、ハタラキ
思いを超えたもの、霊なるものの臨在~現臨にある感じとはどういうものか?...これを言い表す慣用語というのが中々見当たらないのです。
普通は、私が居て、そういうものと対峙している、という風に捉えられるものでしょう?
そういう霊的な存在が現れ、私に一つになるように関わって来るのか?...
そりゃ、心霊現象、憑依現象でしょうよ!?
私は一度もそういう実体をもった存在として見たことは無く、私が別人格のようになってしまうことは無いのでして、いやむしろ、そのものにより、私の実存が顕わになる感じになるのです。
一つになるというか、元々私と別在していないものが、顕わにあるという感じです。
いやしかし、一つになる、一体化というのは、二つのものがあることが前提になっている訳だし...
これは、仏教的表現で、小池辰雄先生がキリストとの関係を言い表した、”一如”という表現にもっとも肯かざるを得ません。
現臨にあるとは一の如し...又それは二の如しでもある訳で、これは愛というものがそういうものであるのは言うまでもありません。
自分と一つのものなら何故神とか、自分とは別の何かのことを表さなければならないのか?
それは、この見える現実が二元的な世界だからでしょう。
もし、この一つの私という存在のみに、神と一つであることが帰されてしまうとしたら、それは私が全くこの現実世界を生きるという在り様から離れて、人間存在としての意義を失ってしまうか、この思われた私が、その実私を超えたそのものに取って代わり、その思念世界に完全に閉じられてしまうことになるかどちらかでしょう。
前者の例は極めて稀で、大概は後者の如く思い描いているだけでしょう?...思いは神的なもの無しで、超えられようがないのだから...
神と私は一つ...そのもの無しには、絶対にそんな感じにはなりようがありません!...”私が、自らがそうなるというのは、一種の魔境でしかないでしょう。そうなるのなら、神と自分が二元的に分離したままの方がはるかにマシです。
というか、そういう状態からしか始められないのが普通なんだ!
そして、祈りなどを通して、愛を感じ始めたら一如の現実に入ることになります。
この二元世界で、一なるものを頂く...それがこの現実に生きる我々本来の在り方なのでしょう。
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