人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本質的なこと、普遍的なこと

2023-08-06 09:59:02 | 哲学・思想
”神は七次元の存在なので、神と一つになるにはその次元にまで進化しなければならない!”
”30数年後の未来、人類の大半は滅びてしまうので、それまでに覚醒しないとならない!”

真摯に道を求めている人なら何次元だとか、何年後だとかのことなど本質的な問題でないことはすぐ分かることでしょう。
いや、どっかの誰かの言葉を鵜呑みにしていること自体がそうだと思われるでしょう。
末節的なことに囚われている人間には、いつたどり着くのか知りませんが、ある人にはそこに本質的なことらしいことも織り込まれてあるのを見い出すかもしれません。
地域、時代を超えて道を求める人たちに深く関心を持たせるもの...それは普遍的なものと言えるかも知れません。
しかし、この本質的なこと、普遍的なことについてですが、私はほとんど意味というものを考えずに使っているところがあるのです。
ちなみにコトバンクなどを引っ張ると...
《本質》そのものとして欠くことの出来ない根本的な性質、要素
《普遍》広く行き渡ること、すべてのものに共通に存すること...
だそうです。皆知ってましたか?
その定義みたいなものによれば、それを知らないと大変なことになるように感じてしまうけど、それを知ったからってどうなるってんだ!
概念を知ったから、それが分かるってーのは大違いですよ!
本質的なことを言えば!...それを対象化してどうのこうのってことじゃないのです!
普遍的なことと言うのも、多分...本質的なことというのは、個的なもので、普遍的なことは、その他大勢に関わるものに思われているかもしれませんが...その他大勢は、一般的なこと、世間的なことしか知らないのであり、普遍的なことなど全く縁も所縁も無いと言っていいでしょう?
これは、個々が感じることなのではないですか?
つまりそれは、本質的なことと結び付いているのではないか?
けだし、それは実存的なことと言えるでしょう。
私がそう感じない、本質的なことも普遍的なこともあろうはずがないのです。対象化された意味の世界には無く、直観の世界に求められるものなのです。
個々の直観に基づくものは、各々異なる感じ方、観方があるのも当然のことでしょう。
しかし、その根底には本質的に、普遍、不変的に感じられるものも横たわっているのではないでしょうか?
これは、表層的思念の領域を超えているのは言うまでもありません。
本質的なこと、普遍的なことというのは、人それぞれの内奥に求められるのです。
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守護霊、聖霊、真我

2023-08-05 09:57:22 | ガイダンス
守護霊、守護神というと、誰しもが自分という個人が居て、その見えない背後から個人の運命を守り導く霊的存在というものを思い浮かべるでしょう。
その存在を広く世に知らしめた五井先生の教えでは、その守護への感謝などを通じて、その関係を密にすることを重視すれど、それ以上に真の自己の主体性、真我の目覚めへと結び付ける道へは、特に深めて説かれてはいないようです。
これにはどうも、先のような守護の神霊との二元的な関係を抱かせる先入観念が壁となっているように思われます。
しかし、先生の守護神霊の説明には、人間存在の本体とも言うべき”直霊(神の直接的な分かれ)から分かれたもの”、とあるのに留意する必要があるでしょう。(言うまでもないですが、私には神霊界の真実というものは分からないので、こうした話はあくまで仮説、あるいは通説の域を出るものでないことをお含み下さい)
これを踏まえると、真の自己こそは神の直霊たる神霊の方であり、個人である私はその表層的表れということになるではありませんか?
ルドルフ.シュタイナーは「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」(アルテ他)という著書で、古代ギリシアにおいて、守護神霊を意味する言葉”ダイモーン”について、特に哲学者ヘラクレイトスを引き合いにして「個人は、ダイモーン的なものの現象形態の一つでしかありえない...」「ダイモーンは、一個の人間存在の内部に引き籠もっていることは出来ない」と著しい言葉を述べています。
ダイモーンは、後期キリスト教では、異教の悪魔的存在と見なされ、今日でも守護神霊的なものは、聖霊と区別されて、その界隈では全く問題にされていません。
この理由は、(表向きには)非キリスト者である私にも分かります。あまりに俗説、通説におもねられて、真の主体性、実存に関わることが少ないからです。
しかし!...それがこの私の本源に関わるもの、そもそもそのもの無しに私が生きることが出来ないものであれば、話は別です!
たとえそれが異教の神々だろうと、阿弥陀如来だろうと...聖霊はキリスト教の独占物なのか?
私の実存と切り離された聖霊が何になるだろうか!?...聖霊の内住という...キリストの聖霊こそは、神我、真我と結び付けられるのではないか?
このことが真に、内実を持って自己の内奥から示されないならば、如何に高尚な神学だろうと、ただの抽象的なお話に過ぎませんよ!
私は先の通り、所謂心霊的な通説を”丸呑み”したりはしません。勿論、頭ごなしに否定もしませんが、(守護霊)は認めざるを得ません!
それは、通説を超えて深い意味で、私を導く霊なるものに他ならないものです。(それは最終的にどこへ導こうとしているのか?)
それは、ダイモーンか聖霊か分からないが、段々私の主体はそっちに取られつつあるのを感じているのは、暑さのセイばかりではないようです...。
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十字架ー無と全託

2023-08-03 10:20:23 | 人生の教師
真摯に精神的な道を求めている人なら誰でも、自分の思いから離れること、無心になる、空の境地になる、といったことがそこに横たわる大きな関所のようにも大きな問題だ、ということはそれとなく知らされているでしょう。
そうして、修行なりに取り組んだりするのでしょうが、いつも言うように、中々自分からはそうならないという現実に突き当たってしまうのでしょう。そう思っている自分を超えられないのだから当然のことなのです。
私には元より、そうした自力修行の気根など無いので、心がそっちには向かなかった!、というより手島、小池両先生を通じて、聖霊による恩寵を受ける道があることを知らされていたのです。
とはいえ、私は実際に形の上では(短い間ですが)小池先生の門をくぐることになった訳ですが、先生の説かれる”キリスト道”に、キリスト教の枠を超えた、普遍的なものが志向されているのを感じつつも、どうしてもそこにキリスト教臭が払拭されないものも感じていて、一歩踏み切れないでいたのです。
それは、手島先生には見られないもので、先生の道のある意味で中核的な部分、”十字架”の教え(?)に表れていたと思います。いくら”教えでない道だ、告白だ!”と言ったって、それはキリスト教の教えではないか?...そうでなきゃ、何で十字架なのか?
確かに、小池先生は、他の、ほとんどのキリスト教の先生と同じように、十字架を贖罪論と結びつけて説いたこともありました。
正直、非キリスト者を自認していた?私には直接関わらないことであり、どうでもいいこと、無理に信じる必要のないものだったのです。
しかし!...私は何度でも告白しよう!...これは、受けなきゃ分からない!...これが内包しているものは、十字架という狭い、キリスト臭のする言葉に惑わされては、この普遍に開かれた教え、否それはいくら観念的に信じ込んでいても、”体受”しなければ明らかとならない”道”そのものだ、ということを!
十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!...これは聖霊自体の、我々の思念を無化させるハタラキを伝えるものだったのです。実にそれは、”聖霊を受ける”という一言に集約されるものでしょう。
然るに、何故先生は、そこに十字架というものを強調されなければならなかったのでしょうか?
それは、ただ聖霊を受ける、ということの上に、何ものか...自分の観念、信念、力、意志的なものを付加するもの、恩寵にゆだね切ることの無い、ある傾向が見られたからではなかったか?
自分の思い、力を無化するハタラキの前には全託するしかない、そうならざるを得ないのです。
先生の説かれた十字架は、無と全託を象徴していた!...そのように感じてなりません。
それは、普遍的に神の道を象徴していると言っても過言ではないでしょう!
十字架にぶっつぶれなければ、神の道は開かれない!
象徴はそれ自体にトラワレることなく、如何ようにも表示され得るものですが、それが何を指し示し、内包し、そして体受するかどうかが肝心なのです。
聖霊、ダンマ、タオ...名称は何であれ、こちらがそれを得ようとしたり、なろうとする、出来そうにない道でなく、そのものがこちらを無にして、通ってゆく道は万人に開かれている道なのです。
十字架の道は、全くキリストキリスト教の枠を超えているもの...小池先生を思う度にこの真理が表に顕わにならんことを願わされるのです...。



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現臨の執りなし

2023-08-02 10:16:26 | 人生の教師
「説明はもうやめます。一人ひとりが聖霊を受けることです! 私のような卑しく罪深い者にさえも、神様は聖霊を注ぎたもうたのですから、ましてや皆様には注がれるに違いない」
(手島郁郎「ヨハネ伝講話第二巻」/手島郁郎文庫)

現臨という言葉は、神の、キリストの、聖霊の現臨、という風に表現されるように、主としてキリスト教で使われているものから借りているのです。”現存”という言葉でもいいでしょう。
英語では”presence(プレゼンス)”。
ああ、もうこの響きが伝わるだけで、その現実に入れられてしまう!...祈入(小池辰雄)
現実に現臨、現存しなければ、神もキリストも如来も抽象的に対象化されて信じ仰ぐだけのものになってしまいます。
え、聖書の神ならともかく、天照大神や阿弥陀如来もか?...そうです!
だから、いくらキリストは神の独り子、救世主で、このものを信じないと救われない、と観念的に信じてたってしょうがない!、とそう言っているんですよ!
教会では、”イエス.キリストは今も生きたもう!”と説かれています。
それは、現実在らしめるものなのだから当然のことです。キリストのみならず、こちらも!
現臨にあって、そう言い表すことが出来るのです。
それは教理のことじゃない、何を信じるかということじゃない!...現に受けるかどうかが、又受けるということは一如になるということ、それが問題なのです!

手島郁郎先生や小池辰雄先生の講話などに接していつも感じさせられることは、先生たちは、この場合は勿論、キリスト教的に聖霊のことですが、この現臨の執りなしをされていた、ということです。
手島先生などは、カリスマ的な資質を持っておられて、お弟子さんたちには、絶対服従を強いるようなところもあったようですが、それも聖霊の執り成しというものあってのものだったでしょう。
小池先生の方はもっと身近に接する機会がありましたが、やはり”先生!”と慕われる存在ではありました。
それは、宗教的な集まりでは特に珍しいことではありません。
しかし、両先生とも”このことを欠いてしまったら、一体何の集会か!”と力を注いでいたのは、この聖霊の執りなしにあったに違いありません。
これは、やはりその主要な活動の一環だった、文書、著書の発行でも同じことが言えるでしょう。(本を読んだだけで、聖霊の現臨に与れるのか?...あるだろう!...少なくとも私はその片鱗に触れたことがあると言っていいでしょう)
先生方は、そのように尊称され、その教えを玉条の如く崇められることを本意にしていたでしょうか?
小池先生からは、”私が語るのは教えではない!、告白だ!”という言葉を何度も聞きました。
先生存命の頃はどう違うのかよく分かりませんでしたが...
こうして、不肖私自身がいつも現臨について生意気にも書いていて...いやもう、先生方はこれを!、この言葉に言い表せないこの現実を伝えようとされていたのだなあ、と感じさせるものを覚えています。
先生、教えと言われているものの、向こうにあるものを受け取らなければ、それは本当に今も生きたものにはならないでしょう!
それが現臨にある、ということなのだから!...


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場としての現臨

2023-08-01 09:47:54 | 現臨、ハタラキ
精神的な道においては、修行などを通じて今の自分の状態、つまりは肉体レベル?の自分から、エーテル体、アストラル体...もしくは幽体、霊体...と段々微細な体的なものへと進化してゆく、という教えが根強く信じられているようです。
私などもそれを当たり前のように信じていた時期もあったのですが、勿論それは誰かが説いている、世間に知れ渡っている通説におもねっていたに過ぎず、実際は一度も自分の(肉体の中に)そうした微細体があるのを感じたことは無かったのです。(これは、あくまで私の場合のことなのであり、そういうものを実際に感じたことのある人の見解を否定するものではありません)
一つ言えることは、この教説からは、自分の肉体、その奥の自分の霊体...そして自分(が)その開発を目指して進化してゆかねばならない、と如何にも個我的な在り方に立脚している、させられている感じが拭えないということです。その多くが自力行と結びつくように...
然るに、私にはどうしてもかかる有り様では、個我を超える、つまりは自分の思いを超えるという消息が伝わってこないのです!
個我を超えることが進化なのかどうかは別として!...(”私が“進化するという思念が抜けないような進化など大したことはあるまい!)
クドいほど言っているように、個我の私からはその自分、その思いを超えることは出来ないのです。思いを超えたもの自体が臨まない限りは!
これを現臨と呼んでいる訳ですが、このものは、私の肉体の中にある、そういう隠れていたものが顕わになるという感じも確かにあるのですが、それは私の幽体、霊体であるとは言えません。何故ならば、それはまさに私の何かを超えているのだから!
より的確に言い表せば、それは私の中も周りも包んでいる、そういう場である!...現臨という場にあるということ...このこと自体が私という個我を超えていることを物語っているでしょう。
これは、おそらく西田哲学で説く”場所“という概念と通ずると思われますが、場所なんて言うと、どうしても何かで仕切られている特定の空間というものを連想してしまいます。
この見えない場なるものは、それ自体が臨んでいることにより、時間も空間もある種の限定がもたらされるようで、限定もされないとも言えるでしょう。いつ、どこにそれが臨むか分からないものだから!
とにかく、このものが”ここに”あれば、この私はただその場にあればいいのです!
私は私であって、私は超えられてあるのです。“私が進化しよう“なんて思うこともなく...このものにあって、それがどこに行くのか、どこに導かれるかは分かりません!
ただ、このものにあればいい!
前記した個的な進化の道では、そういう個的な段階を経て、コーザル体だかどっかでそれを超えた段階に移行するとか説いているのですが...
個的な修行を志したことも無く、そういう気根も無い私にはサッパリ分からないことです!...
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