私は以前、金井系一郎先生の瞑想会の会員だったことがあります。会員といってもほとんど名ばかりという感じでしたが...
しかし、私は会員になる以前も辞めた後も、先生の提唱される、“一定の形の無い瞑想“(会では“金井メソッド“と呼ばれる)にずっと馴染んでいるのです。ということは、先生の指導を受ける以前から、そうしたものは、私に定着していたということであり、先生もそこは理解されていたようです。
今でも先生からは、啓発されるものを多々感じていますが、どうしても全幅の信頼を寄せるというまでには至らないものを感じてしまうのです。
その理由は、どうも先生は“神を信じていないらしい“、というところにあるようです。
私はね、神を信じない人間は信用してないのですよ!...といって、言葉通りに受け取っては困りますが...
思われた自分だけにしか頼らない、自分を超えたものを認めない...そんな人間は、絶対に実存出来ないでしょう?
少なくとも、宗教、スピ..あらゆる精神的な道において、そんな人間は皆無と言ってもいいでしょう。
ブッダは、自分を超えた、神や霊的存在というものを認めなかったという...しかし、それでどうしてあの因果論や思いを断滅する道などが開かれたのでしょうか?
金井先生においては、今はその形無き瞑想の発現元である“元波動“という言葉は、使われていないようですが、これなどは、全く自分の思いを超えたところから来る、という他ないものです。いや、そもそも自分の思いを超えなきゃ、ああいうものは発現しないのですよ!
又、先生のメッセージには随所に、大いなる愛とか、そう...自分を超えたものの消息が語られるのです。
ブッダや金井先生などが、神、霊的存在について語らない理由は、私なりに分かっているつもりです。
それは、精神に観念による想像物、介在物、形而上学的実体、偶像、強固な先入観、固定観念を作り出してしまうからに他なりません。
これあることにより、思いを超えたものからの直接的なハタラキの流入を妨げ、直接経験の、精神的な目覚めの道は塞がれてしまうのです。
要するに、心の中に“想像物“を作らなければいい!...直接的な神、霊なるものに囚われるのでなしに、開かれていたらいいのです。
私はいつも言うように、この思いを超えた、自分を超えたもののことを象徴的に神と呼んでいて、それは直接経験によって知り得るものであるのは言うまでもありません。
囚われさえしなければ、生きたものになります。神、キリスト、如来...何だっていい!...
そこから具体的な、言葉を超えた、親愛といったものが伝わります。
しかし、“あなたを平安に導くものは、あなたが瞑想が深くなったからであって、神じゃないのですよ!“、という言葉からは、どうも私には、何か冷たい、心から信頼出来ないものを感じてしまうのです。(先生からは、どうも感性というよりは、何かとても知的なものを私は感じました)
もっとも、私がその会を辞めたのは、その理由というより、もっと現実的なことなのでした。
お金の余裕が無くなったので、ただ会費が引かれていくだけで、特にメリットな無い地方会員(会は東都が中心で、東京の月例会には、会員は無料で参加出来た)を続ける理由が無いと感じたからなのでした。
しかし、私は会員になる以前も辞めた後も、先生の提唱される、“一定の形の無い瞑想“(会では“金井メソッド“と呼ばれる)にずっと馴染んでいるのです。ということは、先生の指導を受ける以前から、そうしたものは、私に定着していたということであり、先生もそこは理解されていたようです。
今でも先生からは、啓発されるものを多々感じていますが、どうしても全幅の信頼を寄せるというまでには至らないものを感じてしまうのです。
その理由は、どうも先生は“神を信じていないらしい“、というところにあるようです。
私はね、神を信じない人間は信用してないのですよ!...といって、言葉通りに受け取っては困りますが...
思われた自分だけにしか頼らない、自分を超えたものを認めない...そんな人間は、絶対に実存出来ないでしょう?
少なくとも、宗教、スピ..あらゆる精神的な道において、そんな人間は皆無と言ってもいいでしょう。
ブッダは、自分を超えた、神や霊的存在というものを認めなかったという...しかし、それでどうしてあの因果論や思いを断滅する道などが開かれたのでしょうか?
金井先生においては、今はその形無き瞑想の発現元である“元波動“という言葉は、使われていないようですが、これなどは、全く自分の思いを超えたところから来る、という他ないものです。いや、そもそも自分の思いを超えなきゃ、ああいうものは発現しないのですよ!
又、先生のメッセージには随所に、大いなる愛とか、そう...自分を超えたものの消息が語られるのです。
ブッダや金井先生などが、神、霊的存在について語らない理由は、私なりに分かっているつもりです。
それは、精神に観念による想像物、介在物、形而上学的実体、偶像、強固な先入観、固定観念を作り出してしまうからに他なりません。
これあることにより、思いを超えたものからの直接的なハタラキの流入を妨げ、直接経験の、精神的な目覚めの道は塞がれてしまうのです。
要するに、心の中に“想像物“を作らなければいい!...直接的な神、霊なるものに囚われるのでなしに、開かれていたらいいのです。
私はいつも言うように、この思いを超えた、自分を超えたもののことを象徴的に神と呼んでいて、それは直接経験によって知り得るものであるのは言うまでもありません。
囚われさえしなければ、生きたものになります。神、キリスト、如来...何だっていい!...
そこから具体的な、言葉を超えた、親愛といったものが伝わります。
しかし、“あなたを平安に導くものは、あなたが瞑想が深くなったからであって、神じゃないのですよ!“、という言葉からは、どうも私には、何か冷たい、心から信頼出来ないものを感じてしまうのです。(先生からは、どうも感性というよりは、何かとても知的なものを私は感じました)
もっとも、私がその会を辞めたのは、その理由というより、もっと現実的なことなのでした。
お金の余裕が無くなったので、ただ会費が引かれていくだけで、特にメリットな無い地方会員(会は東都が中心で、東京の月例会には、会員は無料で参加出来た)を続ける理由が無いと感じたからなのでした。