人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

方法の無い祈りと瞑想

2023-08-14 09:30:24 | 祈りと瞑想
前々回にも触れた“方法無き方法“について、これまで書いたことと重複するかもしれませんが、なるべく具体的に書いてみます。(なるべくと言うのは、方法が無いから具体的に示すことは困難ということです)
まず、“私そのものを意識してみる“。...先にも言った通り、これは実際にそれが出来たかどうかは問題ではありません。そうすることで、この一個なる私だけでない、それを超えたようなものが誘起されるかもしれない?...それがネライに他なりません。
私そのものは、自分がそう思っているものを超えている!
これは、私が昨秋、突如その思いを超えた現臨に開かれる感覚を失ってしまった時、パッと閃いたことだったのです。
肉体の私、精神の私とか考えたり、高次元の私を夢想するので無しに、直ちに直接的に、何の色づけの無い私自身を意識すること...これはもう、現臨にある私が意識されていると言ってもいいでしょう。
そして、現臨はいつどこに開かれるかもしれない!...前々回、方法が無い道は、いつでもどこでも行われる、と言ったのは、具体的にはこれに対応しているのです。
それは、行うという能動的レベルを超えたものとならざるを得ないでしょうが!...
私は度々、この道について“祈り“というものと関連づけて来ました。
それは、どうしても自分を超越した、神的なものを意識せざるを得ないからです。
それは能動的な、通常思われている瞑想を超えた瞑想とも言えるでしょう。
最初からその神的なものが意識出来る方には多くの説明は要らないでしょうが、よりそれを誘起させるには“マントラ“を使ってみるのもいいでしょう。
“何だ、そりゃ能動的にやる、通常思われている瞑想法の一つやんか?“、と思われる方も多いでしょうが、ここで言っているのは、ゴニョゴニョ唱えごとをするというよりも、ある言葉の一念をパッと意識するだけで、パッとそれが開かれるような、形の無いあるもののことなのです。
言葉そのものよりも、その響きにアクセスすると言ってもいいのです。
ちなみに玉城康四郎先生は、ブッダの“自灯明、法灯明“だそうですが、私はズバリ、“現臨“(私がやたらとこの言葉を使いたがるのはこの理由らしい?)、“聖霊“...パッと思い浮かべるだけで、ソクソクと!...
“阿弥陀如来“、“アラー“なりの神名、○○師、○○先生でも、最愛のあなたが意識しやすいものなら何でもいいでしょう。

まだまだ、到底短いスペースでは語り切れないですが、、中にはこれを読んで!、“よーし、私も試してみよう!“なんて人もいるかもしれないので、最後に(最初にいうべきだったかもしれません)...
漠然と思っているだけならともかく、現実に思いを超えた世界にアクセスすることは、精神のバランスを崩すとか、どんな危険が待っているか図り知れないものがあります。
けっして、軽はずみに、ナメてかかってはなりません。
祈りのことにも触れていますが、ここは普通に神的なものの導き(というか、ここで言っていることのほとんどはその主導で行われることなのですが...)を祈ったらいいでしょう。
そうでない、自分の思い、能力を過信したり、妄想癖の直らない、ちと頭の高い人間には...
“さっさとこの場を立ち去れ!“...と言いたい!
言うまでもなく、一般向きとはかけ離れた内容になっていると思います。
これは、真摯に、自分自身に向き合えるような...あなたのために書いているのです!
コメント
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