「我は、自己自身を超越し、その内的実存において、他の我、共同的な我、汝、神の世界に出て行くときにのみ自己の実存を実現する。...全ての他の我、汝からの我の孤立は、自己の破滅である」(ベルジャーエフ「孤独と愛と社会」/白水社刊)
ベルジャーエフのこの言葉で、“我“、“汝“とあるのは、ユダヤ系哲学者マルティン.ブーバーの有名な著書「我と汝」を踏襲しているのです。
これらの言葉は、我々の実存と関わらなければ、出て来るはずはありません。
私は今無謀にも、実存という言葉の意味、概念的理解のことなど深く考えないで、こういうことを語っています。
又、乱暴にも私はそれが分からなくても、“我は実存している“、と言ってしまいます。
逆に言おう!...それが分かったからといって、あなたは実存していると言えるだろうか?
実存について、いくら抽象的に考え、何らかの知的結論を得たとしても、“我は実存している“とは言えないでしょう?
考え、思っている私のみからは!...そこから出て行かなければ、超えなければ!...
否、我は、そうせしめるものにあって、かく言うことが出来るのです。
そして、何と多くの人間は、思いを超えたもの、神とは何か?、とこれ又抽象的に考え続ける...“考えたら“こんな滑稽なことは無い!
ベルジャーエフが言うには、我の実存には、超越的人間、超越者の存在が前提となっているという...
それは、言うまでもなく、我と別在しているものでも、形而上学的実体として思い描かれたものでは無いでしょう。
しかし、この思われた私からは、かく超越したものと感ずるしかありません。
多くの人は、通弊の如く、“私は私の思いを超えなければ実存出来ない!“と思念するのかもしれません。
だけど、私がそうであるように、“超える、超えられる“というのは、我々の本性からかくなされるものなのでしょう。だから、超越者が、神が何か?など考えるまでもなく...
このことは、“引きつけてやまないものがある“ことがそれを物語っているのです。
つまり、超えるものにあって、実存していることが我々の自然な有り様なのでしょう。
そして、一個の、思われた自己のみに閉鎖された時、“私は私でなくなる!“、実存を失うしかありません。
閉ざされた自己の状態から超え出ることは、同時に他者との交わりがあることを意味しています。
では、諸々の理由で孤独であることを余儀なくされている者はどうなのか?
私は今形の上では孤独ですが、それを感じてはいません!(都会で暮らして居るからかもしれませんが、いや、孤独、自己疎外を感じている人間の多くは、都会人なのではないか?)
“超越者“との交わりを感じているから!
これは、意識的にならないと感じて来ないでしょう。
私は何か?と考えるのでなしに、ただ“私が在る“ことを意識、感じていたらいいのです!(そう、意識的であることが実存していることとも言えるでしょう)
だから...ああ、もう...あの御方の臨在、迫りを感じてなりませぬ!...
ベルジャーエフのこの言葉で、“我“、“汝“とあるのは、ユダヤ系哲学者マルティン.ブーバーの有名な著書「我と汝」を踏襲しているのです。
これらの言葉は、我々の実存と関わらなければ、出て来るはずはありません。
私は今無謀にも、実存という言葉の意味、概念的理解のことなど深く考えないで、こういうことを語っています。
又、乱暴にも私はそれが分からなくても、“我は実存している“、と言ってしまいます。
逆に言おう!...それが分かったからといって、あなたは実存していると言えるだろうか?
実存について、いくら抽象的に考え、何らかの知的結論を得たとしても、“我は実存している“とは言えないでしょう?
考え、思っている私のみからは!...そこから出て行かなければ、超えなければ!...
否、我は、そうせしめるものにあって、かく言うことが出来るのです。
そして、何と多くの人間は、思いを超えたもの、神とは何か?、とこれ又抽象的に考え続ける...“考えたら“こんな滑稽なことは無い!
ベルジャーエフが言うには、我の実存には、超越的人間、超越者の存在が前提となっているという...
それは、言うまでもなく、我と別在しているものでも、形而上学的実体として思い描かれたものでは無いでしょう。
しかし、この思われた私からは、かく超越したものと感ずるしかありません。
多くの人は、通弊の如く、“私は私の思いを超えなければ実存出来ない!“と思念するのかもしれません。
だけど、私がそうであるように、“超える、超えられる“というのは、我々の本性からかくなされるものなのでしょう。だから、超越者が、神が何か?など考えるまでもなく...
このことは、“引きつけてやまないものがある“ことがそれを物語っているのです。
つまり、超えるものにあって、実存していることが我々の自然な有り様なのでしょう。
そして、一個の、思われた自己のみに閉鎖された時、“私は私でなくなる!“、実存を失うしかありません。
閉ざされた自己の状態から超え出ることは、同時に他者との交わりがあることを意味しています。
では、諸々の理由で孤独であることを余儀なくされている者はどうなのか?
私は今形の上では孤独ですが、それを感じてはいません!(都会で暮らして居るからかもしれませんが、いや、孤独、自己疎外を感じている人間の多くは、都会人なのではないか?)
“超越者“との交わりを感じているから!
これは、意識的にならないと感じて来ないでしょう。
私は何か?と考えるのでなしに、ただ“私が在る“ことを意識、感じていたらいいのです!(そう、意識的であることが実存していることとも言えるでしょう)
だから...ああ、もう...あの御方の臨在、迫りを感じてなりませぬ!...