前回の記事で、肝心なことに触れるのを忘れていました。
あの反面教師の戯言のことですが、“ワクチン打たなくても、塩でも直ると信じれば直る!“、とか言う、相変わらずのバカ.ノーテンキなこと...
いや、そおじゃなくて!...いつも自分にマイナスになるようなことにはほとんど触れなくて、如何に自分を正しく、高くみせようとしていたこの御仁が珍しく、コロナに感染したというありのままのことを報告していたことです。エライ!...そうじゃなく、それが普通に当たり前のことなのです。
前にも書いたように、ありのままということは、“自分がそうならなければ!“、ということでなく、思いを超えた光に照らされるならば、そうならざるを得ないということなのです。
そしてそうなれば、精神的目覚めに与らざるを得ない!
他人が言っている言葉、宗教、カルトの教えなどに信従してゆくだけの、主体性を欠いた、他への依存するだけの在り方から自由になること...それは、自己実存に目覚めることに他なりません。
“それは、神的なものに依存、支配を受けることではないのか?“...いや、自由、主体性、実存といったことは、そうなってみて初めて“直“に感じられることなのです!
覚醒に与る運命にある人というのは、徐々に実存的な方に目覚めてゆくのが普通でしょう。
誰でも最初は、ある教師などに共感し、影響を受けながら求道、探求をするものですが、それはそれとして、そういう人はある時節において、そういう段階から離れることになるものなのです。
だから、宗教の狂信者やカルト思考などの人が目覚めるに与ることはほとんど無いと言っていいのです。彼らは“バク睡“している故に!
その実存への目覚めを促すもの...それが見えない導きというものでしょう。
少なくとも、私にはそういうもの無しには考えられないものを感じています。
私か精神的な道を求め始めて、しばらくは五井先生に心酔していて、その影響の下に道を歩んでいたのです。
しかし、ある時期突然、普通に、当たり前に人生の苦しみ、悲しみ、喜びを感じるとはどういうことなのか?...そして、五井先生の“消えてゆく姿“などの教え、ただ霊界の存在などを信じるだけの在り方に、“現実のリアリティ“というものから浮いたものを感じ始めたのです。
自分自身がそういうものを感じずして、一体誰の人生なのか?
これが実存の目覚めの契機となったのは間違いありません。昭和53年秋のことでした。
それまでもある導きみたいなものを漠然と感じていましたが、そしてそれからは、一段と深みへと入り、翌年からはそれはより確かなものになって行きました。
それは、声なき声で盛んに“お前はどう思う?、どう感じるか?“と実存に目覚めることを促しているようなのでした。
あの反面教師の戯言のことですが、“ワクチン打たなくても、塩でも直ると信じれば直る!“、とか言う、相変わらずのバカ.ノーテンキなこと...
いや、そおじゃなくて!...いつも自分にマイナスになるようなことにはほとんど触れなくて、如何に自分を正しく、高くみせようとしていたこの御仁が珍しく、コロナに感染したというありのままのことを報告していたことです。エライ!...そうじゃなく、それが普通に当たり前のことなのです。
前にも書いたように、ありのままということは、“自分がそうならなければ!“、ということでなく、思いを超えた光に照らされるならば、そうならざるを得ないということなのです。
そしてそうなれば、精神的目覚めに与らざるを得ない!
他人が言っている言葉、宗教、カルトの教えなどに信従してゆくだけの、主体性を欠いた、他への依存するだけの在り方から自由になること...それは、自己実存に目覚めることに他なりません。
“それは、神的なものに依存、支配を受けることではないのか?“...いや、自由、主体性、実存といったことは、そうなってみて初めて“直“に感じられることなのです!
覚醒に与る運命にある人というのは、徐々に実存的な方に目覚めてゆくのが普通でしょう。
誰でも最初は、ある教師などに共感し、影響を受けながら求道、探求をするものですが、それはそれとして、そういう人はある時節において、そういう段階から離れることになるものなのです。
だから、宗教の狂信者やカルト思考などの人が目覚めるに与ることはほとんど無いと言っていいのです。彼らは“バク睡“している故に!
その実存への目覚めを促すもの...それが見えない導きというものでしょう。
少なくとも、私にはそういうもの無しには考えられないものを感じています。
私か精神的な道を求め始めて、しばらくは五井先生に心酔していて、その影響の下に道を歩んでいたのです。
しかし、ある時期突然、普通に、当たり前に人生の苦しみ、悲しみ、喜びを感じるとはどういうことなのか?...そして、五井先生の“消えてゆく姿“などの教え、ただ霊界の存在などを信じるだけの在り方に、“現実のリアリティ“というものから浮いたものを感じ始めたのです。
自分自身がそういうものを感じずして、一体誰の人生なのか?
これが実存の目覚めの契機となったのは間違いありません。昭和53年秋のことでした。
それまでもある導きみたいなものを漠然と感じていましたが、そしてそれからは、一段と深みへと入り、翌年からはそれはより確かなものになって行きました。
それは、声なき声で盛んに“お前はどう思う?、どう感じるか?“と実存に目覚めることを促しているようなのでした。