人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

悟りと本心開発

2024-06-13 09:22:49 | 覚醒
私は正直、悟りという言葉を使うのを躊躇したいと感じているのです。
まず、その意味合いが曖昧である...そのためかそのイメージが勝手に広がり、膨らみ、あちこちに独り歩きしているようです。
取り分け、それが通常の人間を超えた、高い、進んだレベルに達するようなことに結びつけられることが問題なのです。
そういう方に思いを向かわせるものは、ほとんどエゴ.マインドだと思って間違いないでしょう。思考マインドから離れなければ(無くすということでは無い)けっして、そういうものが開かれることは無いのですよ!
このことが疎かにされたら、シャカの境地とは真反対の頭が、いや人間そのものが“おシャカ“になるであろうことは目に見えているではありませんか?
又、悟りのことを覚醒と呼ばれたりもされて、これも先の理由で、同じものなのかどうか見解が分かれたりするのですが、それは全くもって“目覚めた!“、という感じを伴うものなので、的を得た表現ではあります。しかし、これにもエゴをくすぐらずにおれない、“完全覚醒“なんてのが付いて回る...そういう思いから目覚めることにも関わらず!...
一方で、五井先生などはよくこれを“本心開発“と呼んでいました。本心が開かれること...要するに本心の目覚めということでしょう。これは実にピッタリと来るものが感じられます。
何しろ、思考マインドがどんなに悟りを開くことを望んでいても、本心の意向無しにはそれが開かれることは無いのですから!
これは先のことが何故問題となるかについて、自明に分かることではありませんか?
本心の方は表に顕わになろう(これでない悟り、目覚めというものは無い)としているのに、表の思考の方がエゴに囚われていたり、やり方を間違えていたりして、その道が塞がれたりする...これが多く、自分はいくら悟ることを望んでいてもそうならない理由なのでしょう。またそうなるには、本心が知っている相応の時節というものもあります。
つまり、いくら悟りのテクニックを身につけ、修行を続けようと本心にかなわなければ無駄なのです。
だから、あなたは本当にその所謂悟りに与りたいのか、エゴマインドを満足させたいだけなのか、あなたの本心に聞けばいいのです。本心とは、“あなたの神“のことでもあります。
もし、それが本心から来るものなのであれば、それはあなたの思いを超えて、どうあっても、こうあっても避けられない運命として、然るべきタイミングであなたに訪れるでしょう。
本心、神に聞く気のない、思考マインドだけに支配されているような人間は...人生がおシャカになるのがオチなんだからその道は諦めるしかないでしょう!...精々祈るしかないだろう!
それが本心、神に聞くということなんだ!
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普遍的なものに導かれて

2024-06-12 10:03:14 | スピリチュアル
いつも言うように、私が書いているものには私の独創的な理論もメソッドもありません。
すべて過去の有名無名の先師たちから借りたものと言ってもいいでしょう。
彼らの残されたものに共感、共有出来ればという願いこそあれ、チッポケな自分で独創的などと妄想してるような、何の役にも立たないものを表そうなんて気は毛頭無いのです。
その共有財産から離れ、浮いたような独創など独走、妄走して消え果てるしかないでしょう。
もし、そこに”普遍性”というものを見い出すことが出来るなら、ただそれにつながっていたいという一心しかないのです。
しかし、敢えてこのブログの逆説的な特色があるとすれば、例えば表向き何のつながりもないような、出口王仁師、五井先生、手島先生、小池先生、玉城先生、ベルジャーエフ、ラマナ.マハルシなどのことが同じ場所で自由に語られるような、そんな訳のワカランようなことが随所に出て来るところでしょうか?
又、誰も知らない”大調和協会”の命御様、命位様について書かれたものは、もしかして日本中探しても、ここでしか読めないかもしれないのです。(これは、新天新地、”人類維新の大業”について言い表しているのです!)
こういうのは、ウソ偽りの無い、私の固有の心性から表されているもので、きっと、他の追従を許さないものなのでしょう?...それもそのはず、誰からも理解されたことが無い!
何故、こういう誰もマネ出来ない(しない?)ようなことが出来るのかというと...その先師たちの人間性、教えは如何に異なろうとも、同じ言葉、形を超えた生きたものが伝わるからに他なりません。そして彼らは又、このものと共に生き、各々の在り方で、このものの消息を伝えていたに違いないでしょう?!
それが、聖霊、形なき命、おハタラキ...呼び名はともかく、ここでよく”神の現臨”と呼んでいるものと同質のものでしょう。
この呼び名は、そこに、正にその超宗派的なものを表したいがためなのです。
この本来言葉、形を超えたもののあるものが、そこから切り離され、浮き出してしまうというのは、本来あり得ないことです。そう分離させる、末節的なものに固執した言葉というものはあるかも分かりませんが!...
神の現臨という...神にあるということは、けだしそのものから切り離されない、表向きの違いはあったままで、一即多、一切のように調和しているということではないでしょうか?
といって、私には神が本当はどういうものかは分かりません。私の思考を超えているものなのだから!
しかし私は、上記のようなことを書いているうち、現前しているあるものに意識させられ、自ずとそこに惹きつけられるものを感じずにおれなくなるのです。
それは、普遍的なあるもの...私はそれがどういうものか分からずに、知らずにそのものに導かれているようなのです。
神、普遍性とは?...それはもはや我々の“思考の及ばないところ“にしか見い出すことは出来ないでしょう。
私はきっとそこで先師たちと偉大な財産を共有しているのかもしれません!...
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自己と神の実存

2024-06-10 09:53:32 | 現臨、ハタラキ
自己とは何か?、私は誰か?...
と、考え追求して行って、何らかの論理的結論に達したとしても、自己そのもの、私そのものが分かったとは言えません。
そうした思考によるアプローチというものは、思考する私と、その対象となる自己とがずっと分かれたままで、その追求は果てしない堂々巡りとならざるを得ません。
頭の中だけでオチたと思っても、永久に自己そのものに達することも、オチることも無いのです。
しかし、もし何かの拍子に(ヘンな言い方ですが)自己が自己につながる、一つになってしまったら!...その時、あなたはそのことを考えていないでしょう?...ただ、それを感じている...それは思考を超えて、純粋意識が開かれた状態と言ってもいいでしょう。
考えている自分からはけっして、自己そのものと一つにはなれないのです。
この意味で、自己そのものになる、自己実存に目覚めることは、前々回で言った”思考の及ばない地点”に立っているとも言えます。
そうなるには、大変な修行が必要なのでしょうか?...私はそんなこと言うつもりなどありません。この夏は、猛暑になる予想がありますが、熱中症になったらそんな感じになるかもしれませんし...
修行などにしても、どうも私は自分からは、そのように開かれる気がして来ません。
”自己とは何か?、私は誰か?”...このことを何の先入観、固定観念も無しに、思考を巡らすことなく、ただ感じてみる、意識してみる...これは、一寸掴まえ所が無い話のようで、何をどう向けていいか分からないかも...あ、しかし!...
.”aha!...私などすぐに、その一個の私、考えている私を超えた、私たらしめているものの臨在が感じられて来ます。そう、私を超えたものの現臨!
自分からは、自己実存とつながることは出来ないのです。少なくとも私には!、自ずとハタラクもの無しには!...
出来ない!、という限界、壁に当たることをよ~く味わってみたらいい!...その限界点こそが開かれる地点なのです。
自己実存は、神の現臨と一つのもの!
ここに何故、宗教、神信仰というものが人類の歴史と共にあるのかが分かる気がします。本当の自分と神とは分けることの出来ないものだからでしょう。
自己とは何かを知りたければ神を求めよ!
ただ、これまで神は、自己と離れたままの崇拝対象として考えられ、信従して行くだけのものとされ続けていたのです。
実存する神は、そのような形而上に想像される実体のことではありません。
神が顕わに実存することは、人間実存が顕わになることと一つのことなのです。
段々顕わになる...いや、もうホントにこれは、”aha!”なことですよ!
私が私を生きていること、それはそう在らしめられるから生きている、生かされている...これは理屈ではないでしょう?...人間は最初から難しい理屈なんか無くたって生きているではないか?!...
生まれ赤子を見よ!...


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感じる、受け入れる現実

2024-06-09 09:32:20 | 哲学・思想
私は時に哲学的なコ難しいことを言うかもしれませんが、そういう理屈っぽいことを表すことを主眼にしているのではありません。
どんなに高尚そうな(?)哲学理論めいたもの(そんなメンドクサイもん無いですが)が説かれようと、そこには感じること、感性的なものと切り離されることは無いのです。
感性の前では理屈は道を譲らなければなりません。
”あなたはどうなのか?”、という哲学的な問いがあったとして、哲学的には多くの場合、”私はこう思う”、という線の答えがあるでしょう。
しかし、もっと根本的なことは、”私はこう感じる”、ということであるはずではないでしょうか?、それがより、あなたの在り方を規定しているはずなのです。
こういうのを、”例によって”、やたらと定義したがる向きは、感性論、感性主義とか言うのかもしれません。何とでも呼ぶがいい!
私はただ、観念に浮いた机上の空論のようなものでなく、極めて現実に即したことを言っているまでなのです!...この現実から離れた哲学など、そも”ヒマ人のヒマつぶし”以外の何になるだろうか?
要するに、あなたは現実にそう感じているのかどうか、ということなのです。
例えば、原始仏教においてブッダは、”一個で存在する自己など存在しない、真我という実体など無い”、と”無我論”を説いたとされていますが、実体は求められなくとも、”私というもの”は意識されている、そう感じたならどうなんでしょうか?
いいや、”ブッダの教えは無我論なんだ!”とあくまで固執するとしたら、きっとブッダの”無記”の教えは死んでしまうことでしょう。ブッダの原理主義ほどナンセンスなものは無い!
現実にそう感じたなら、受け入れるも何も受け入れるしかありません。
所謂ノンデュアリテイの教えについては、再三言って来ました。
”あなたは居ない、全体しか無い”...あなたは現実にそう感じられるでしょうか?(もし私は居ない”とあなたが感じたとしたら、そういうあなたは居るでしょう?)
ブッダの教えと同様、信条だの、主義だの自説だの、そう思いたい、信じたいことにおもねることは、現実に感じる、それを受け入れるという、根本的な在り方からズレてしまっていることに他ならないのです。
しかしながら、現実に感じる、受け入れるということには、受け入れ難いことがあるのも事実ですね。
苦しいこと、イヤなこと...でもそこにも、より根本的に感じているものがあるはずなのです。苦しみ、イヤなことに隠れているもの...感じてみて下さい。
安らぎ?、幸福?...これは、苦しいことを否定して、そういうものを思おうとすることじゃないですよ!...だから、それは感じる、受け入れる現実から外れているんですって!
あなたが本当に、リアルに感じ、受け入れるなら感じられるはずなのです!...って、”こうすれば”という説明がオチになってしまったではないか!
そうなのです!...感じる、受け入れる現実とはそういうことなのです!...
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思考の及ばない地点

2024-06-08 10:20:16 | 哲学・思想
哲学的な精神とは、言うまでもなく自分で主体的に考える、内省する精神と言えるでしょう。
だからそれに照らせば、デキアイの宗教やスピなどにみられる、あの先生がそう言っているから、とか経典にそう書いてあるからというだけで、安易に追従してしまうような生き方などは問題外なのです。
いや、すべての真の宗教、スピ、霊性の道においてもそう言えるでしょう。それはあなた自身が直接関わるものなのだから!...取り分け哲学的な精神態度にはそれが要求されるということです。
その中で霊性の道に通じた哲学者(多く宗教哲学者と呼ばれる)などは、ある宗教思想を批判して、”あれはまだ究明が不十分である、ぎりぎりのところまで徹しきれていない!”、などと言ったりします。
このぎりぎりの地点とはどこのことなのでしょうか?
思考して、どこまでも思考を深めて行って、どこかに行き着くのでしょうか?
それは、正に思考の及ばない地点ではないでしょうか?...分別智の絶たれる地点。
真の宗教、霊性の道に通じた哲学者は、思考出来ない世界があることを知っているのでしょう。
その思想は常に直感的な霊性に根差していて、現実に活かされない、抽象観念に浮いたりしません。そうした霊性の土台から切り離れるから観念に浮いてしまうのです。
よく宗教で”思考は捨てなければならない!”、などと説いているのは、先の際について言っているのでしょう。
それがある地点で絶たれなければ、直接体験の道は開かれないのは確かなことですが、”無くてもいい、無くさなければならない”、ということとは勿論違います。
哲学的とは言わないまでも、その道を導くものこそ、内省的な思考精神なのではないでしょうか?
内省的というのは、何も能動的に思考をこねくり回すようなことではありません。
内省的な思考そのものを感じるというようなこと...それ自体、瞑想的な意識状態になっているようなことです。
これは、普通に考えられている思考の源とも言うべき、知性と感性が切り離されていない意識世界から来るものです。
これは、霊性の道にあって不可欠のものと言いたい!...表層の思考の土台であり、道標となるものです。
だから、ただ考えられているだけの思想では不十分なのです。
それだけでは、どこにも行き着くところが無い!、オチが無い!...(これは、表層的な論理的結論みたいなことを言っているのではありませんよ!)
考えたら分かるでしょう?...いや、感じられるはずです。
こんな我々の精神世界の根本にあるものが一般に認知されていないとは!
私には生来から固有に覚えられていたにも関わらず!...
敬愛すべき哲学者たちと同じく、ウンと程度は下がるけど、私は確かにこのものに導かれたと言えるのです。









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