人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

気付きと苦しみは隣り合わせ

2024-06-07 10:00:48 | 求道、探究
宗教、スピ、哲学...精神的な道ではすべて”自己、本当の自己とは何か”、それを明らかにすることを問題にしていると言っていいでしょう。
キリスト教などでは、よく”自己を捨てなければならない、そういう思いは十字架にかけて無くさなければならない”、なんて説いていますが、それはキリストにある自己が真の自己なんだということを言わんがためであり、結局は同じことでしょう。
それに、思考も欲望も人間として生きている以上、無くなったりはしないのです。
ただ、それらは超えなければ、真我に目覚めることは出来ないことに気付いて、そういうことを言う訳ですが、私がクドく言うように自分からは超えられないのです。超越的なハタラキ無しでは!
哲学的に考える人などは、そうして真の自己を追求し、そしてそういうものは、この一個なる自己だけに、考えている自己のみに求められないことに気付くはずなのです。
そこには、どうしても思考のみからは超えられない壁がある。
これは、普通に考えてみても、限りある、一部分だけからは、それを超えた包括的なもののことが分からないように、不可逆的原理、法則のようなものなのです。
これにブチ当たらない人は、どこまでも、どこにも行き着かず、導かれない思考の限界まで追求してやまないのでしょうか?...(だからそこに超えられない壁があると言っているでしょ!)
飽くなき追求に取り憑かれていたら分からないでしょうが、どこに壁があるかは分かりますよ!...思考を断絶させるハタラキがあるから!
私は無のハタラキ、無化させるハタラキとか呼んでいますが、先の通り、それでずっと思考が無くなる訳でなく、この気付きをもたらすために一時的にそうなる(中にはそれで無くなる~人間で無くなる人も居るかもしれませんが)ということなのです。
私の場合も昔から哲学的に考える質でしたが、先のように自分のその旺盛なる思考活動を楽観視していませんでした。むしろ、その絶え間なく去来する思考のがんじがらめ状態に苦しみを感じていたのです。
”この考えすぎる私は一体何だ!(笑)
宗教的なことにも関心がありましたが、思考、分別智を無くさないと、悟りの道は開かれない、という固定観念があって、これじゃあ、ダメだ、ダメだといつも思っていたのです。
しかし、今思えば、その思いのトラワレ状態があったこそ、それを超えたものに与ることが出来た、そういう導きを受けたということに気付かされます。
つまり気付きというものは、多く苦しみがもたらすものであり、隣り合わせのものだと言えるでしょう。
具体的にアリアリとその無化のハタラキを受けたということもありますが、それ以前から思考の密閉状態に通気口が開けたように、そのトラワレから解き放つ風のようなものを感じることしばしばだったのです。
そして、そこには又必ず”私はこうして考えている自分だけが私なのではない”、という気付きがもたらされていたのです。
私を超えたもう一人の私...それは私の自我意識の中に隠れていたと言っていいでしょう。

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自我、肉体というもの

2024-06-06 09:58:23 | 求道、探究
悟りや覚醒に与るには、思考マインドや肉体感覚を無くさなければならないのです!...なんてことはない!
私は、それらから離れるとか後退させるというようなことはともかく、そんなこと言ったことは一度もありません。
ホントに無くしたら、ふにゃふにゃになって人間として生きていくことなど出来なくなりますよ!
何度か言っているように、悟りとかのことだけでなく、問題となることは、考えている自分、肉体としての自分、それ”のみ”、それ”だけ”がすべて”のように、そういう制限された思いに囚われている、ということに尽きるのです。
そこから自我意識というものが生まれてくるのです。だからそれを捨てたらいい...ってそうじゃない!...そう思っているのは間違いなくエゴマインドですよ!...そうして出来もしないことを考えているのです。
この自我は、本当に自分がここに現存していることがどういうことかが分からないのです!...考えるのだけど分からない、考えているから分からない?...
だけど、そういう実存感覚というもの自体、この自我意識なしには目覚めることは無いのではありませんか?
”私はここに在る”という感覚の、そもそも普通我々に始めに芽生える端緒は、”他の何ものでもない自己、一個なる自己、つまり個我意識と肉体感覚にあるのではないでしょうか?
ところが、あくまでそれらは、より包括的自己の見える形として表れている、部分的な存在なのであって、その私自身の現存を目の当たりにすることは出来ないのです。
それは、見えない、分からない!...ここがその限界を超え、突破に与るか、それに囚われてしまうかの分岐点なのです。
本当に自我意識の無い人間は、この地点に立つことは出来ないでしょう。
いや、普通に考えたら分かるでしょう。何故、人は誰でも物心が芽生えると、自我意識が発達するということが!
”自分がここに居るということはどういうことなのか?”、ということに否応なしに意識が向かわせられるのです。
又肉体があれば食欲も性欲も生まれます。それらが満たされたら幸福に感じるかもしれません。いいやそうじゃないでしょ?、そういう感じがするだけで満たされたらそれは無くなるでしょ?
そうして得たら、消えてしまい、得られなければ、失えば不幸になることばかり追いかけている...常住の幸福というものは、肉体的快楽には求められない...しかしこのことも肉体感覚あって分かるものでしょう?
限界というものが本当に分かることによって、初めてそれを超えたものがあるということに気付くことが出来るのです。
限界というものが意識されることが、超えたものに与ることなのです。
だから、自我意識、肉体はけっして否定さるべきものじゃないのです。
天与のものに、何一つそんなものなどあろう訳無いではありませんか?
少なくとも、自我意識無しには人間は誰も悟ることなど出来ないでしょう!?...

コメント (7)
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ハートは真我の座

2024-06-04 09:01:10 | スピリチュアル
ラマナ.マハルシは、”ハートが真我の座である”と言いました。
正直、私がこのブログを始めた初期の頃までは、そのことを体感的に分かることは出来なかったのです。
いやもう、本当にこのブログ活動は、私にとってライフワークなんてもんじゃない、”命だ”、と言っていいくらいですよ!
私が真我実現したか、どうかは知りませんが、”ハートが私の中心だ”、というこの気付きこそが命そのものでなくて何であろうか!
それまでも、意識が自ずからある中心へと収斂されてゆくようなことは、感じられてはいました。意識を何かに向けるというより、向けられてしまうということは、このことを言っているに他なりません。
意識の中心?...しかし、それは第三の目か?、頭のてっぺんか?...どうもよく分からない、考えたら余計分からなくなる...自ずとそうなる(これがミソなんだ!)...これはもうハッキリ体感出来る!...ハートで分かる。
といっても、それは所謂ハートのチャクラのことではありません。というか、私はチャクラのことはほとんど意識してないし、分からないですが...
本当の自分自身のことは、胸に手を当てて、ハートに聞いたら分かるのではありませんか?
このことは、私がそのように意識させられるもの、ハタラキを”現臨にあること”と盛んに言い始めたことと無関係ではありません。
これは、よりその現臨というものが、私の実存感覚を呼び覚まし、それと切り離されないものとして感じられることに拠るのです。
そうして、そのハタラキ的なものは、理学的な作用といったものを超えてより包括的なものとなり、私の内奥に浸透するようになったのです。
それは又、愛というもの、ある対象に向けられた愛でなく、私に本来的に与えられている、愛そのものに目覚めたこととも連動しています。
何故、意志想念を働かさなくても、自ずとある中心に収斂されてゆくのか?...これが本来的な愛の為せるところなのではないでしょうか?
惹きつけてやまないものがある!...それは最愛なるものが現前しているから!...
このようなことをここで書いて、否書かされている内に、いつの間にかかく導かれてしまった訳なのです。
そう、何か私の思いを超えたものに導かれて書いているような感じがずっとあります。
これは、やっぱり私の”真我の座”から来るのでしょうか?!...

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ハタラキにある交流

2024-06-02 09:32:45 | 現臨、ハタラキ
私が神的なものの”現臨”という言葉を使い出したのは、ほとんどこのブログを始めてからのことで、それまではもっぱら”ハタラキ”と言っていたのです。
ハタラキというのは、正に具体的に働くもののことであり、思い描いたり、考えたりすることでなく、現実にそうなる、そうなさしめるもののことを言うのです。
だから現臨という場合、そういうハタラキがある、ということであるのは言うまでもありません。それが臨むからハタラクのです。
ただ、ハタラキというと、どうも冷たい、理学的な作用という感じがするので、よりそうなさしむるもの、自己実存と切り離されない、ある意味で人格的な、現存するものの感じを表すために、そのように呼んでいるまでです。
又、先の思い、考えることと区別されることで、しばしば無化する、無のハタラキということを言っていますが、現臨にある時、思いから離れられる、ということも又言うまでもないことです。
私は、このことをテキメンに感じたことで、忘れられない思い出があります。
それは、昭和55年春、高砂市の大調和協会の本部にて、命位様との交流を通じて、その”おハタラキ”(協会でこのように呼び慣わされています。つまり”ハタラキ”という呼び名はここから借りているのです)の”み顕れ”、その生きたものであることをまざまざと実感させられたことです。
それまで、私は命位様の息子でもあるK氏との対話の中で、どういう内容だったかは忘れましたが、何か頭の中に重たい、迷路に入ったような、要するに思いの囚われに陥ってしまっていたのでした。
それが、応接室で命位様が入って来られるだけで、徐々にそれが開かれる感じになって来て、命位様の問いかけに対し、ボソボソとぎこちなく、言葉数少なく答えたことから、明らかに命位様の表情が変わり、その眼差しは、一点私の目を射抜くように向けられたまま、吶々と語られたその瞬間のことでした。
その内容たるや、語るだに言葉に言い表し得ないものです。ただそれは、私の内なるものを目覚めさせ、奮い立たせることに向けられていたのは確かなことです。
瞬く間にその思いの覆いは取り払われ、普段思い、考えている自分からは分からない、私の思いを超えた、私自身の真ん中を、そのおハタラキは直撃したようになったのでした。
”この人は、私以上に私のことか分かっているんだ!”
この出会い無くして、今の私は存在しないと言っても過言ではありません!
この時は、私に現臨感覚が芽生えていた頃で、明らかにその時、命位様との交流によってそれが自ずから呼び覚まされ、それに又命位様が感応されたようなのでした。
その交流は、実に神的な現臨、ハタラキによって呼吸され、貫かれていた、と言っていいでしょう。
その後、私は当時は東京在住していたのですが、こういう経緯もあって関西に拠点を移し、協会の会員にもなるなどして、縁を深めて行ったのですが、正直言って、協会絡みのことは、あまり記憶に残っていません。何で会員になったのかもよく分からないくらいなのです。
ただ、こうした命位様との交流のことは別だ、と言わねばなりません。
それは、現臨がハタライていたのだから当然のことなのです。
待てよ、協会のことは印象に無いと言ったけど、断片的にはあるなあ!
いや、それは断片では無いのです。あんなこともこんなことも、そこには:”おハタラキ”に会っていたのではなかったか!
現臨、ハタラキにある交流というものは、過去、未来を際断して現在を一つに貫いているのだから!

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無相の命位様

2024-06-01 09:51:57 | 人生の教師
前々回で取り上げた久松真一先生は、自分でも”私には煩悩がありません”、とその”無相の自己”の境地にあるということを表明しているのでした。
これは、聞いている人間には、そういうことは分からないのが普通ですが、直弟子の阿部正雄先生は、久松先生と接心している時、ただの言葉だけでない、体現されているような真実というものを認めざるを得ないものを感じたと、八木誠一先生との対話の中で言っているのです。
このことについて、感覚的なことなので、同じものなのかどうかは分かりませんが、気づかされることがあります。
それは、大調和協会の会掌、”命位様”との関わりのことです。
命位様という人は、協会の人からは、そういう仰々しい名で呼ばれていますが、普段は言うまでもなく、一寸品のいいお婆さんという感じで、世間話(世間に疎いところはあるが)などもよくされ、当たり前の人間的な感情もある方なのです。
私には、共に”二つで一つ”の関係で、協会を支えて来た、会主、”命御様”の葬儀の時、棺に取りすがって、”焼いてしまうのは、イヤです!”と泣き崩れていた姿を忘れることが出来ません。女性だからということもあるかもしれませんが、とても人間らしいところを見させられたのでした。
ところが...私は、この方と何度も一対一で相対したことがあり(いつもそうなるとは限りませんが)多く、ある日常では感じることが出来ない、言い表し難い、強いて言えば、そう、神的な現臨、ハタラキに包まれてるような感じを持ったことがあるのです。
それは、決まって対話の中で、私がある言葉を発したことで、命位様のスイッチが入り、そこから体現されるものを通してそのように導かれてゆくのです。
どういう感じかと言うと、普通にある個人と相対している感じで無くなる...相対感が無くなるというか、正に”無相の命位様”に相まみえているという感じと言ったらいいでしょうか?
といって、これは先の久松先生の場合ではどうか分かりませんが、命位様が普通の人間を全く超えたものとして、無相ということを言っているのではありません。
正に相手が居ない、命位様が自分か自分が命位様か...ある面では、個人の命位様の何かによって私が感化されているように感じられるのではあるが、それ以上に感じられるのは、神的なハタラキかがそこに現前しているということなのです。命位様と私の二者をハタラキが貫いている!...
このように、相手に無相なものを感じるということは、そこに無相の関係性が生じているということが言えるでしょう。
これは、そうさせる人間の思い、力を超えたものが臨み、働くということでなくて何であろうか?
このことが蔑ろにされる時、”私が超えた、悟った”という自分が顔を出すのでしょう。
だから、ただ言葉で、”私は無相の自己、分別智も迷いもありません”と言うだけでは、どうも誤解されてしまうのではないかと思うのです。
しかしながら、改めてですが、命位様との幾たびかの交流を通じて、いつの間にか、かく書かされている自分が居るということを思うと、計り知れないものを感じずにおれません。
やっぱり、私には命位様は、人間であって人間でない、相手であって、こちらと一つの、無相の存在、無相の命位様と言う他ありません...。
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