人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

どう感じているのか?

2024-07-07 10:00:40 | 求道、探究
あなたは、あれをしようか、これをしようかと迷っている時、何を基準に判断するでしょうか?、
例えば、本屋さんであの本とこの本のどちらかを選ぶか、というような場合です。
普通は、考えて判断するのではないでしょうか?
知識を深めるにはこっちが、実用的なのはあっちがいいとか...
私も勿論、そういうことも考えたりしますが、そこに何かを感じたならもう迷いはありません!、選択の余地は無い!
どう感じているのか?、“考えるな、感じろ!“
私には、そのあるものを感じるかどうかが最も重要な基準となるものなのです。だけど、最初からそういう感性に恵まれていた訳ではありません。
私が精神的な道に関わるようになった始めの頃は、もう知識欲、単純に興味が惹くような思いが大勢で、いつ本筋から脱線するか分からないような、アブナイ面もあったのです。
そおして、言わんこっちゃない!、ウカツにカルト宗教に近づいて、ヤバイことになりそうになったのでした。
それで、カルトのオソロシさ、オロカさが本当に身に染みて自覚され、それが免疫となり、以降、浮ついた思いでヘンなことに赴くようなことは無くなりました。
何度も書いているように、この苦い教訓からあの現臨感というものが芽生えたのです。
こう書いたら、もう分かる!...その時から行動の指針となるものが与えられたのです!
ただ、これまで漠然と、“あの、何というか、全身心にしゅんと筋が通るような感じ“という風にしか感じて無かったのですが...どう感じているか?、といっても根本的には色々な感じなんてのはありません。そう、愛、平安、リアリティといったものなのですよ!
要するに、本当に愛、安らぎが感じられるかどうか、ということに尽きるのです。
そんなことを改めて思った...こりゃ、驚くべきことじゃないか?!
これは、現臨感から来るものなんだ!、あの感じというのは、意識が自然と向いてしまうということなんだ!
逆に思ってしまいます。何故宗教、スピ界隈には、未だにカルト、オカルトなどの脱線路線に迷う人間が後を絶たないのか?、と。
あなたには、この思いを超えた導きを感じられませんか?
あなたの本心はどうなのか?
意識がそこにあるということが、精神的な道の本筋なのです。だから、邪さの道に迷うことは無い!
これは善悪とかモラルの問題じゃありません。カルトにハマる体質の人間は、何度もハマり続けるものです。存在レベルで免疫が出来ていない、又考えても分からない存在レベルの指針が与えられていないからです。
気安く、神を信じているとか祈っているなんて言うもんじゃない!
本当に神を自分の本心を信じ、受け入れるのなら、“あの感じ“に導かれざるを得なくなるのが本当ではないのか!

思い起こせば、ああいうハメにならなくても、私には“これではいけない!“、ということは分かっていたのです。本心では!
しかし、根本的体質改善には、苦い薬も必要だったということでしょう?...

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祈りしかない?

2024-07-06 09:22:16 | 祈りと瞑想
“祈りと瞑想は、切り離されないもの“、というようなことは、ここで当初から言って来たことです。
しかし、その時はまだ、“祈りというものと、瞑想というものがあり、その二つには分けられないものがあり“...という風に、どこか二元的に捉えているところがありました。
しかししかし、今はもう、そこに全く二つは無い、という感じになってしまいました。
祈りと瞑想という言い方をするのであれば、もし、瞑想というものが、一定の座り方、呼吸法などのメソッドに則って修行法として行うものであるならば、私はそういう瞑想とは全く関わりが無いと言わねばなりません!
サマーディというか(それは現臨にある意識状態、現臨感覚と言ってもいいのですが)、瞑想状態というものがあります。
他の人のことは知らないですが、私はそういう意志想念から行う瞑想から、そのような状態に導かれたことはほとんど無いのです。
一般的には、そういう自力的なものを瞑想と捉えているのかもしれませんが、得てして、それによりかえって自我心を強めてゆくことにならないのでしょうか?
勿論、瞑想しようと思い立つことは、取っ掛かりとしてはありますよ。いや、ただ瞑想、祈り、神、聖霊...といった言葉を思い浮かべただけで、私はすぐに、自然に思いを超えたものに意識が向けられてしまうのです。
だから、そうなさしめるもの無しにそうなることはありません。こういうことを祈りと結びつけているのです。
祈りというのは、思い、為そうとする自分をそれに投げ出すこと...自分から開かれることでは無いのです。
自分は自分だけで成り立っているのではなく、自分を超えた場所を頂いてある。だから投げ出すことが出来る、開かれるということがあるのです。
もし、それで“そんなのは、瞑想じゃない!“という向きがあるのなら、私には、そういう祈り的なものしか無いとしか言いようがありません。
これは、あくまで私に即したことを書いているまでなのです!
瞑想修行に励むというのなら、気が済むまでなさったらいいのですよ!
え、暑くて瞑想修行どころじゃない?
ジッツにおツカレさんなことです。
じゃあ、無理しないで木陰で休んでたらいい...
いや、熱中症になるかもしれませんよ!
なったらなったで、もし、そこに自分の思いを超えたもの、見えない場所を感じたなら、何かが始まる...かもしれない?
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キリストと阿弥陀如来

2024-07-05 09:27:16 | キリスト教関連
私は、何度か言っているように、キリスト教的なものにとても惹かれることはあっても、クリスチャンになることは無かったのです。
イエスという数千年前の、異国の人間を“我が主“として受け入れ、呼びまつることなんてどうしても出来ない! あの人らは、何で“おお、イエス様!“なんて呼んだり出来るのか? 見たのか?、何かを感じるのか?、いや聖書や牧師の言葉を鵜呑みにしているだけではないのか?
それに、“イエス.キリストの名以外に我々が救われるべきものは与えられていない“、と来ては、絶対にそんな独善的なものは受け入れられません!
そんな私でも、そのキリスト教的な集会で、あの“御方“のみ手に捉えられてしまったことがあるのです。
それは、フレンド会でも小池先生亡き後のキリスト召団でもありました。
それは紛う方無き“あの御方、我が主“を受け入れた瞬間であったのです。パウロじゃないけど、“私が生きているんじゃない、私の主なるものが生きているのだ!“ということを実感させられたのでした。
その御方とは、イエス様?...そうじゃない!...キリスト?、そうじゃなさそうで、そうかもしれない?
とにかく、私の中に何の理屈も、わだかまりもなく、一つのものがスーッと入り、通って行ったのです。この御方は、そうなる以前からも、キリストの集会の外でもずっと我が主であり続けていたのだ!
それをキリストならそう呼ぶことに何の抵抗も感じません。なんてことは無い、私はずっと前からキリストを受け入れていたのではないか?
仮にそれが阿弥陀如来でも素戔嗚尊でも構わない…要するに本当に、私の主なるものとして感じざるを得ないのならば!
だから、私にはキリストとは固有名詞ではないのです。牧師や信者は何と言うか知らないけれど、イエスは違いますよ!
イエスは阿弥陀如来と言うのはやっぱりオカシイ!...阿弥陀様も固有名詞ではありません。
これは、イエスがキリストになったことと、法蔵菩薩が誓願が成就することによって、阿弥陀如来になったという、浄土教の教えとよく似ています。
ついでに言うと、イエスのみ名を通して祈るということも、阿弥陀仏への称名、念仏と似ていますね。ただ、それはキリストのみ名に何でならないのだろうと思うのは、ただの私のへ理屈でしょうか?
新約聖書によると、ナザレのイエスは、バプテスマのヨハネを通じて、水のバプテスマを受けてキリストになったのでしょう?
しかし、聖書記者は、どうもイエスは生まれた時から神の子、イエス=キリストであることを強調したかったからなのか、このキリストのイニシエーションというものを軽く捉えているようです。
私もずっとそう見ていました。あれはただ頭から水を浸す儀式なのだろう、と。
しかし、聖書をよく読むと、“聖霊が鳩の如くイエスの上に現れた“、とあるではないか?
ただの儀式なんかであろうはずがない!
これ以降、イエスの中にキリストが生きて、イエスを通してキリストが顕わになる、又聖霊のハタラキも顕わになったということではないでしょうか?
もっとも、仏典でも聖書でも、それが真実だろうと虚構だろうと、ただ書かれているだけのものとして、読んでたって何にもなりません。
自己の実存の現実に即したものにならなくては!
“我が主“が目の当たりに明らかなものにならなくては!
イエス=キリスト。これがどんだけ私に障壁となったことか!...それを自分のこととして受け入れられるのならいいでしょうが、そういう信仰命題をいくら信じてたってしょうがありません。
イエスにおいて、キリストと一つになったように、一人一人においてキリストと一つにならねば!
自己において、キリスト神我(真我)が実現しないならば、我々は本当には救われないのでしょう?
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言葉を超えた言葉

2024-07-03 10:01:31 | 哲学・思想
我々人間は、言うまでもなく言葉無しに生きては行けません。
テレパシーかなんかが開かれない限り...
って、霊能力者でない私が想像するに、テレパシーってのは、思いの中で言葉が交わされるものなのでしょうか?
普通に表される言葉を使う我々は、多分そうだと思います。原始、未開人のように言葉が発達していない人間なら分からないですが...彼らは言葉以前の言葉を伝え合っているのでしょう?、そう考えるしかありません。
言葉以前の...?、そりゃ一体何だ?...コトタマ?、ロゴス?...そういう言葉は無いの?、こんな肝心なものが!...伝えようとするもの無しに、一体何を伝えよう(は?)、否何が伝わるかってんです!
もし、そういうものが無かったら、すべてのコミュニケーションは、成り立たなくなると言ってもいいでしょう。感じてみたら分かる?...言葉に中身というか、命が無くなるでしょう?
やっぱり言葉は、コトタマというか、“たましい“が宿り、又宿らせることも出来るんだと思いますよ。
未開人などは元から、現代人の以心伝心的対話では、表される言語に加え、言葉に言い表せないものを響かせて伝えたりも出来るのでしょう?
我々は表された形だけの言語しか活用していなかったら、それは思考のみで生きている人間と同じで、この世界は、生命の無い機械のような社会になってしまうことでしょう?
そう考えると、我々の言語機能というものは、思っていたよりも、元々テレパシックな要素を持っているのかもしれません。
言葉はその制約を受けて、外からの先入観念を呼び込んだりもするものですが、言葉に言い表されない内的なものを呼び覚ますものでもあります。
例えば、神、キリスト、聖霊...これは私が感じているキリスト教で使われている名詞の代表的なものですが、あるキリスト者にとり、又私のようなキリスト者でない者にとっても、これはただの名詞では無くなるのです。キリストは固有名詞?...いや私にはもう、そうであって、そうじゃない!
名詞で無くなるとなると、動詞か?、神する?、キリスト、聖霊する?...こりゃオカシイ!
この一つ一つの言葉は、一言で説明出来ません!
これは、三位一体というか、この一つ一つの言葉が、ある一つのことを呼び込む、呼び覚ますことにもなるのです!
それは、現臨(神の現臨、キリストの、聖霊のそれ)にある意識状態のことです。一つ一つの言葉にそういう、そうなるという響きが含まれ、溶け込んでいるという感じです。
これらは、名詞でも、動詞でも、助動詞でも何でもいい!、そういうメンドサイ、言葉の制約などを超えて、そのようなことを言い表す、言うたら動的な代名詞(言葉が生きているんだ!)みたいなものです。
これは、そういう呼び覚まされるという原体験があるから、そうなるということ!
そういうことが特に私には印象に残っているので、キリスト教で呼び慣わされているものを借りて、“現臨“と、こう呼んでいるまでです。
これは、精神的な道にある人なら、各々に自分に合った“動的代名詞“といったものがあるはずです、
言葉はその表れたまんまがそうなのではなく、もっと内実を掘り下げ、形を超えたものを表して行く必要があるでしょう。そうでなければ、機械のように言葉に使われるだけでしょう。
言葉は、あたかも我々人間存在の動的代名詞のようでもあります。

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真の超越

2024-07-02 09:33:28 | スピリチュアル
私はよく自己を超えるというようなことを言っています。
だけど、同じ言葉でもニュアンスが大分違ってくるものがありまして、この言葉から、今の自分をもっともっと高めて行って、普通の人間を超えた存在になるような意味に捉えられたりもするでしょう。
私はそういうニュアンスで言うことはほとんどありません。そういうのは自我的な思いから出て来るものなのであり、私がシツコイほど言っているのは、自分の思いを超えるということなのです。
そしてそれは、自分は自分を超えたものと共にあることにつながるのです。
それを神的な現臨にあることと言い、もっと分かりやすく言えば、神と共にある、インマヌエル(滝沢克己)な在り方ということになるのです。
要するに超えたもの無しに、自己を超えることは出来ないということ...エゴが増幅してゆくようなこととはまるっきり違いますね。
こういうことは、古来からあらゆる宗教的な道で、言葉を超えて説かれて来た、大事なことであるにも関わらず、世間的には思考マインドを強めてゆくことが優勢なためか、はっきり示されて来なかったようです。
いや、人生において、こんな大事なことは無い。少なくともあらゆる精神的な道の焦点となるものであると言っても過言ではないでしょう。
それにより、自己実存というものが明らかにされる。
それは同時に自分以外の他者、世界との関わりが明らかにされることでもある。(ここでは言及していませんが、自分を超えるということは、他者と交わることでもあるのです。その超越者こそ他者に他ならないということでもある)
そして何よりも、苦悩、不安から解放されるということなのです。
悩ましき思いが出てゆく場所がある!
自分がなんとかしようとしなくたって、そこに出ればなんとかなる!
考え、悩み、苦しんでいる自分だけが自分なのではない!、それは超えられてしまう、その超えたものと一つであるということなのだから!
人の生は、これに開かれているか、閉じられているかで大きく変わると言っていいでしょう。
神、それに類した言葉に囚われる必要も無いし、所謂信仰も必要ありません。
一個の人間は、それだけで成り、生きているのではない!、思われたあなただけで生きているのではない!...このことは、正に思いから離れた時に分からされることです。
その思いを離れせしめるものは、あなたではない!...その超えたものそれ自体である!
特別な信仰など持つ必要は無いけれど、否応なしにその超越者に意識が向かわざるを得ないでしょう。
意識すればするほど、このことはハッキリ示されるようになります。
自分の思いから信じ込もうとしないで、そのように示されれば、神的なものと共にある、インマヌエルな在り方が人間存在の原態だということがワカる...かもしれない?...

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