前回の補足のようなことですが、ある一つの宗教に属したり、特にある一人の教師を師と奉り続けながらも、本心開発の道を深めてゆく生き方というものも勿論あり得ることでしょう。
というより、本来のその道における師弟関係というものはそうあるべきものでしょう?
例え、表面的には師への絶対服従のような態度を見せることはあっても、それは師と自己との一枚になっているような、自分の本心の表れであったりもするのです。
ラマナ.マハルシが言うように、神と師と真我(本心)とは一つのものなのでしょう。(言うまでもなく、その師は見えない導師である場合もある訳ですが...)
私の場合、宗教団体の信者生活をやめて、本格的な求道が始まった一年くらいは、五井先生との関わりで、そういう道を辿ったとしてもおかしくない感じはあったのです。
もっとも、現実的には先の本来の師弟の道のことは自覚されてはおらず、その前の信者生活でトラウマのように受けたことがあまりにも大きく、そのようには導かれなかった訳です。
五井先生を個人的に師と仰ぐことはあったとしても、その教団に入信するということは詩友という形でない限り絶対に無理だったでしょう。
そして私は、現実に形の上では五井先生との、まだその時にはあった、信従してゆく感情も失せ、先生から離れて行ったのでした。
しかし...五井先生を知って、共鳴するものを感じて以来、私の内奥に仄かに灯された、あの安らぎ、そう、何かに導かれている、守られているような感じというものは今も身に覚えており、ますます自覚的になり、それは私の実存感覚と切り離されないようにも一つのように感じるようになったではありませんか?
それは、その説明としてある守護霊、守護神という実体を思い描くような理解を超えており、それに囚われることは無いものなのです。そういう説明は方便のようにしか感じて来ません。
そういう教えを信じることより、現実に愛、平安、リアリティに導かれ、自己実存を深め、顕わにしてゆくことが本筋なのではないか?
いや、そればかりか不遜なことを言うようですが、「世界平和の祈り」だって方便なのではないか?...いつも神、本心(真我)に思いを向け、一つになる心的状態になるための!
いや、方便というのなら教団を組織し、沢山の信者を作るようなことも!
本当は、宗教宗派を超えて、神、教えの名称を超えて、あらゆる人に大調和精神をもたらすことが主眼だったのではないか?
神、真我しか実在しない!...後は皆“消えてゆく姿“、方便なのではないか?
又、五井先生の本筋、本心開発の道から外れて、頭で知ってもそれを覆い隠すだけで、何の役にも立たない、五井先生をカタる、その実カルト信仰でしかないような教えに走って、脱線するなんてことは愚の骨頂以外の何ものでも無いではないか、そういう信者たちは上辺の業想念に振り回されているだけで、本心はどこにある、どこへやったと言うのか?...“自分の本心に聞いてみろ!“
私と同じ頃、五井先生に共鳴したであろう人間がそんな迷妄に陥っていることに我慢がならないのです!...何がそう言わせるのか?
何か中からそう書かせずにおれない、込み上げて来るものを感じてならないのです。
これは、私の中の五井先生みたいなものなのでしょうか?
それは、もう人間としての五井先生という存在ではありません。
先のように私と五井先生との関係は紆余曲折があり、一筋のものという訳では無かったのです。
いや、ラマナでも命位様でも、私の中にその人間存在を超えて息づいている感じのものはあるのですよ。
だけど、求道に目覚めてからずっと続いているというのは、見えない導師と一つになった五井先生なのでしょうか?...
というより、本来のその道における師弟関係というものはそうあるべきものでしょう?
例え、表面的には師への絶対服従のような態度を見せることはあっても、それは師と自己との一枚になっているような、自分の本心の表れであったりもするのです。
ラマナ.マハルシが言うように、神と師と真我(本心)とは一つのものなのでしょう。(言うまでもなく、その師は見えない導師である場合もある訳ですが...)
私の場合、宗教団体の信者生活をやめて、本格的な求道が始まった一年くらいは、五井先生との関わりで、そういう道を辿ったとしてもおかしくない感じはあったのです。
もっとも、現実的には先の本来の師弟の道のことは自覚されてはおらず、その前の信者生活でトラウマのように受けたことがあまりにも大きく、そのようには導かれなかった訳です。
五井先生を個人的に師と仰ぐことはあったとしても、その教団に入信するということは詩友という形でない限り絶対に無理だったでしょう。
そして私は、現実に形の上では五井先生との、まだその時にはあった、信従してゆく感情も失せ、先生から離れて行ったのでした。
しかし...五井先生を知って、共鳴するものを感じて以来、私の内奥に仄かに灯された、あの安らぎ、そう、何かに導かれている、守られているような感じというものは今も身に覚えており、ますます自覚的になり、それは私の実存感覚と切り離されないようにも一つのように感じるようになったではありませんか?
それは、その説明としてある守護霊、守護神という実体を思い描くような理解を超えており、それに囚われることは無いものなのです。そういう説明は方便のようにしか感じて来ません。
そういう教えを信じることより、現実に愛、平安、リアリティに導かれ、自己実存を深め、顕わにしてゆくことが本筋なのではないか?
いや、そればかりか不遜なことを言うようですが、「世界平和の祈り」だって方便なのではないか?...いつも神、本心(真我)に思いを向け、一つになる心的状態になるための!
いや、方便というのなら教団を組織し、沢山の信者を作るようなことも!
本当は、宗教宗派を超えて、神、教えの名称を超えて、あらゆる人に大調和精神をもたらすことが主眼だったのではないか?
神、真我しか実在しない!...後は皆“消えてゆく姿“、方便なのではないか?
又、五井先生の本筋、本心開発の道から外れて、頭で知ってもそれを覆い隠すだけで、何の役にも立たない、五井先生をカタる、その実カルト信仰でしかないような教えに走って、脱線するなんてことは愚の骨頂以外の何ものでも無いではないか、そういう信者たちは上辺の業想念に振り回されているだけで、本心はどこにある、どこへやったと言うのか?...“自分の本心に聞いてみろ!“
私と同じ頃、五井先生に共鳴したであろう人間がそんな迷妄に陥っていることに我慢がならないのです!...何がそう言わせるのか?
何か中からそう書かせずにおれない、込み上げて来るものを感じてならないのです。
これは、私の中の五井先生みたいなものなのでしょうか?
それは、もう人間としての五井先生という存在ではありません。
先のように私と五井先生との関係は紆余曲折があり、一筋のものという訳では無かったのです。
いや、ラマナでも命位様でも、私の中にその人間存在を超えて息づいている感じのものはあるのですよ。
だけど、求道に目覚めてからずっと続いているというのは、見えない導師と一つになった五井先生なのでしょうか?...
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