人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己否定感、自己肯定感

2025-02-13 06:14:10 | 求道、探究
私自身がそうだったように、精神的、宗教的な道を求めるきっかけとして、ある宗教団体に入り、その教祖、教師の教えに信従してゆく、普通に信者となる道があります。
しかし、何度も書いているように、私の本格的なそうした求道というのは、その信者生活をやめた時から始まったのです。
中には、ずっと信者生活を続ける人も居るのでしょうが、ただ自分以外の誰かを神の如く奉って、その教えを無批判に疑うことなく信従していくだけなら、自分自身の主体性、自己実存に目覚めることは無く、悟りというものを本心が開かれることとするなら、そうしたことは叶わなくなるのは自明なことと言えましょう。 
主体的に自分自身に即して、本心を見つめることを求めるなら、(形はともかく内面的には)そういう信者生活から離れてゆくのが自然な、必然的な心的在り方となるものです。(いつもはこういうことを、他人の教説に洗脳されているだけの、あの反面教師画伯を標的にして、感情的になって書き殴ったりしているのですが、今はなるべく客観的に冷静に書こうと思っているのです)
人生は人それぞれですが、私は言うまでもなく、自分の人生の主体は、自分自身だと思っています。自分で考え、感じたままが人生...それを他人の言葉にゆだねてしまい、支配されてしまう生き方にとどまったままというのは、これはそれにより苦しみを味わった身として、ちょっと考えられないことなのですが、それもその人の人生なのでしょう?
でも、繰り返しますが、そういう心的在り方では、悟り、覚醒というか、本心に目覚める道は決して開かれない、と普通に考えれば分かるように、私はハッキリ言いますよ!
これには、自分自身に意識を向けられない、ありのままの自分を受け入れることが出来ない、という、最近スピ界隈でよく聞く“自己肯定感“に対する、“自己否定感“の思いが強いということが障りとなっているのです。
これを罪の意識と言い換えてもいいでしょうが、当人の内面では自分はダメな、間違った、悪い人間だと思っていて、それに意識を向けることは出来ず、フタを閉め、否定し続け、一方表面的には自分のことを今のありのままの自分でない、もっとデキる、進歩した自分、高きに達した自分、要するにただそう思い描いている自分のことばかりで、その実、業想念の世界を一歩も出ていない状態と言えるのです。
自分自身に意識を向けられないので、自分以外の神のような他人ばかり意識が向けられ、それにひたすら信じ従うことで理想の自分に肖ろうとするという訳です。
ありのままの自分を認め、受け入れることが偉大な第一歩であるにも関わらず!...
何が偉大な第一歩かというと...それが思いを超えるということに他ならないからですよ!
だけど、それはそういう思いに囚われた状態の自分からは、そうなれないというのも事実でしょう。
いや、デキると思っているのは、そう思っている人間だけのことなのであって、デキないというのが本当ではないか?
そのことが本当に分かることが、ありのままの自分を認め、受け入れることなのですが、それは何らかの“思いがけない“契機とか、もっと直接的には、思いを超えたもの、神的なものとの出会いなどに依らねば開かれないものでしょう。
これが今流行りの、“自己肯定感“と言われているものの本質的なことでしょう。自己肯定とは自分でそう思おうとすることじゃないのです。そうすると、得てして先の自分が思い描いただけの自分を肯定することになってしまうから注意が必要です。
真摯に自分の本心を見つめ、それに帰ろう、目覚めようとする人間なら、依存的信者生活から離れて、自然に然るべき道に導かれるのが普通です。いやそう思い立つということ自体がそういうものなんだ!
それをあの御仁ときたら、自分ではありのままの自分、本心を見つめる気などこれっぽっちも持てず、一度も神的なものに出会ったことも無いくせに、“真の覚醒とは神をも超えた境地に目覚めることです“、なんて他人の言葉の受け売りでしかないことを、さも自分が得心したかの如く盗用しているのを見るにつけ、何と愚かしいことなのか、この無知、傲慢の輩は!...と又感情に走ってしまったでは無いか!
(コイツにはこれが出来ないことだけど)ちと反省します!...
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