人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私に臨む神しか知らない

2024-10-06 09:21:21 | 現臨、ハタラキ
「私たち人間は神を知ることなど出来ないのが本当です。もし神を知ることが出来るというならば、それは神自らがご自分を現し、目に見えるように私たち人間の世界にやって来たもうからです」(手島郁郎)

いつも言うように、神がなんであるかは、人間の思考を超えているから分かりません。
思考している自分が分かった、と言うのはただ、そう空想しているだけなのです。
その神が自ら私たちに直接臨みたもうことほど人生で、画期(活気)的なことは無いと言っていいでしょう!(その有り様で、目に見えるように神を知るとは、思いを超えた世界においてであるのは言うまもありません)
私は手島先生に同調して、”私は、私に直に臨んで、顕わにされる神しか知らない!”、と言わずにおれません。宇宙の意志だとか法則のような神のことは知らないし、知る必要もありません!
又、神と一つになるとか、神人合一だとか、ご大層なこと言えた義理などありません。到底、手につかぬ自分のダメさかげんを知る故、そういう境地に達したことは勿論、目指したことも無いのです。
一個なる自分が、それを目指そうとも、そうならないのが本当ではありませんか?
思い、為そうとする自分は、それを超えたものと切り離される故、その一個なる自我に閉じ込められ、その自己を超えるという衝動は、自我の強化、肥大につながるものとならざるを得ないのです。
然るに、否応無しに、終末の様相を映し出す現代文明は、こうした”神無き”意識状態を表しているのではあるまいか?
しかし、その中にあって、どうにか我々の”かくある姿”らしき本来性のようなもの(人間らしい人間の有り様)が存しているのは、意識の深部では、神的なものと切り離されていない自己の”原態”が生きづいているからではないでしょうか?
つまり、この原態が完全に失われるならば、我々は我々で無くなる!...得たいの知れないモンスターと化するか、その性質上、自滅するよりないでしょう。
しかししかし、今、こういう今だからこそ、神は我々を超えた上からも、我々の中からも、ご自身を顕わにされようとしているのが感じられないでしょうか?
それは、神が上から臨むことと、我々の内なる本来からの望みとが合わさることを示しているのでしょう?
だから、神に意識を向け、祈ること、我々の祈願は、神の本願と切り離されないものなのでしょう?!

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出ちゃったら後のまつり!

2024-10-05 02:49:49 | 独語
十年間もブログをし続けていれば
”あ、やっちゃった!”
と思うこともある...
言葉が過ぎているんじゃないかとか、足りないんじゃないかとか...
まとまりのつかないまま記事をアップしちゃったとか...
自分はいつも正しいと思っていたなら、そんなことは思わないだろう...
いや、正しいと思い込んでいるから、迷ったところを見せまいと無かったことにしたいのか?
しかし、正しかろうと、そうでなかろうと、”出しちゃった、出ちゃった”ものは後に引けない!
出ちゃったものは、人目にさらされずにおかない
それで、自分がどういう人間かと判断されても仕方が無い
そのように映ってしまうのだろうから...
何かに照らされてそのように映るのだろう...
照らされるまま、映るまま
そういうものを感じて、書かされるままに書いたとしたら
もう、後戻りなど出来ない!
私はそういう人間なのだ!
受け入れるしかない!
今の自分は改良の余地はかなりあるのかもしれないが...
今の自分を受け入れるしかない!
そういう自分が、何かをここで出される...
出てしまう...
書いている時に感じているものは、私の思いを超えている
私がこういう自分と思っている自分を超えている
正しいとか間違っているとか、出すべきか出さざるべきかを超えている...
だから、出ちゃったら後のまつり!
私の神がなさることを
世の中の神がどう思い、判断されるのかは分からないが...
そんなこんなを...
何と十年も性懲りもなくやり続けているのか!...




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世界は神の内にある

2024-10-04 09:45:15 | 求道、探究
私が精神的な道、霊性の道について書いていることは、ほとんどが一つの概念では語り得ない、他のあらゆるものと分けることの出来ない、統合性をもったものを言い表しているのです。けだし、自己の内奥が開かれるということはそういうことなのです。
例えば、”意識的になる”、ということは”神的な現臨にある意識状態”にある、と言ってもよく、少なくとも私は、必ずと言っていいほどそういう状態になってしまうのです。
これは又、極めて実存的なことを言っているのです。
そして、とどのつまりは、”神的なものと私は分けることが出来ない”、のだと!...
これらは、すべて内的なことを表しているに他なりません。
”え?、それは外的なことと分けられているではないか?”、という理屈も聞こえてくるかもしれません。それに対し、”ええ、それはまったく違うことで、分ける必要があります”、と私はハッキリ答えますよ!
私は精神的な、霊性の道について語っているのです。それが深められるならば、こんなことは説明するまでもなく、自明なことではないか?
ここで外的なこととはどういうことか?...それは、例の反面教師がいつも書いているようなことです。
”多くの人が覚醒したら、宇宙の意志からすると、イレギュラーなことになる”とか...いつものことで不適切なので削除します、とだけ言ってたらいいのに、後日改めて書きます、なんて何の根拠も中身も無い、ただ誰かの説を鵜呑みにしただけか、そうでなくとも頭の空想ごとに過ぎない、それを知ったからといって、何のタシにもならないことなど、書くだけ、いや考えるだけ無駄なことではないか!...
要するに、考える自分が主導となって、能動的に自分とは直接関係の無い、宇宙意志だののことを思い描こうとすること...頭脳知であれこれ空想したり、他人の言葉に依存したりして、自分自身から離れて、思いがその外に向けられるようなことなのです。(この御仁は、思考マインドの世界とそれを超えた世界の区別がつかないのでしょう)
一方、このように、霊性が深まるとは、自分自身が内的に深まることと言ってもいいのです。
しかし、それは、自己内世界に閉じこもることを意味するのでは全くありません。
そうした実存に目覚めた人間も、通常思われている、人間社会や自然環境など”自分の外の世界”で生きるのに変わりは無いのです。
ただ、その外側の世界と自己の内的な世界は切り離されたようには感じてこない...自分のまわりの世界は神的な現臨と共にあるように感じられるのです。
これを”世界は神の内にある”、感じと言ってもいいでしょう。
そうは言っても、考える私からは中々思いを超えられないのも事実ですね。
最初から超えられている人など居ないというのも当たり前のことです。
だからだから...これを分かつ道は、自分の思いに囚われ続けるか、それを超えたものの臨みを待ち望むか、祈りをもって心が開かれるか、ということだけなんだ!
私は何度も書いているように、このことは五井先生との出会いから始まったことなのです。
(これをヤツが読んだらどう思うだろうか?...ま、私には関係無いこと、どうでもええが!...)

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神ったものと愛

2024-10-02 10:08:19 | 
コ難く、ややこしい宗教やスピの道のことはひとまず置いといて、人生を悩み苦しみからなるべく自由に、幸福に生きるには、自分が愛してやまないもの、単純に好きなものがある、ということが大きいですね。
人生には苦難は付き物とはいえ、それがあることでいくらかでも苦難を引きずらず、軽減することが出来るでしょう。
私は生来から引きずりやすい質で、すぐ考え込んでしまう傾向があるのですが、一方では、何か惹かれるものがあると、トコトンのめり込む質でもあるのでした(これは、実に裏表の関係であることが分かります)。とにかく凝る...凝り性がどれだけ私を救ったか分からないくらいです。
音楽鑑賞(凝らなきゃ絶対たどり着けない、誰も知らない中南米音楽とか)、そして読書(これは、もう趣味のレベルを超えて、トコトン行かなければ絶対満足出来ない心持ちのままに、そう、あの”禁断の領域”へと入り込むことになるのです!)
幸福で居られるということは単純に、愛しているもの、好きなもの、夢中になるものがある、ということではないでしょうか?(これと紙一重のものに、依存症、中毒症といったものがありますが、実際に話を聞いても、それは止めたくても止められないから苦しいことなのです)
好きなことに夢中になっている人は、生き生きとしていて、年をとらないように見える。”何のために生きるのか?”、なんてコ難しいこと考える必要がありません。好きに生きているから生きている、そういう自分を生きているんだ、何が悪い?
まわりの”ああしなきゃ、こうしなきゃ、こうでなければ”、ということには関係無しに!...
そういう人は、多かれ少なかれ、そういう自分を愛し、受け入れているはずです。
何が正しい、かにが真実だと、コ難しいことばかりに思いが囚われていて、”神を、人を愛さなければなりません”、なんて歯が浮いたようなこと言っている人間とは大違いですよ。
神を愛しているのか、怖れているのかどっちだか分からんではないか?
間違ったことを思っては、やってはいないか...上からの目線を常に気にしていて、ホントは、好きなことがあるのに、それを打ちに引っ込めて...ああ、もうこりゃ精神分裂ではないか!
まず、自分を愛し、受け入れなければ、絶対に幸福に与ることは出来ないでしょう。
しかし、考える自分だけの自己は、他者の目と結びつくその自我性から自己そのものを受け入れることが中々出来ないのです。
これは、自分の思い、自我性を超えたものを受け入れることで開かれるのです。
それが神を受け入れることにつながるのです。
然るに、その神が怖れの対象になってしまっているのだから、救われようがないではありませんか?
ああ、愛なる神!...もう私は聞いただけで、ジッとしていられません。(又どうしてもこうなってしまうんだな...これは私の場合です。理屈無しに惹かれてやまない、最愛のものと言ったらそうなってしまう!...)
何であれ、あなたにとって最愛のもの、惹かれてやまないもの、好きで好きでたまらないものがあれば、幸福にならない方がオカシイです。
こういう意識の状態が、思いを、自我性を超えているということに他ならないのです。
その対象は何であれ...”なんだ、そんなもの!”、なんて他からの雑音なんか関係無いですよ!
どれだけ、あなたが無心に夢中になれるかどうかということが重要なのです!
それでも、私はその形ある愛する対象には、見えない、形なき対象なき最愛なるものが隠されていて、重ねられているのを感じているのですが...
誰でもそういうものは、神ったもののように感じているには違いないでしょう!...


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神は対象にはならない

2024-10-01 09:40:30 | 
私は精神的な道に関わるようになって、かつては真理の探究だとか、悟りだとか、何が真の、正しい道なのか、といったことに随分拘っていたところがありました。
それも最近はすっかり後退した感があります。”そんなことなどどうでもええわ!”と心底思えてきます。
だって、それが愛、平安と結びつかなければ何にもならないじゃありませんか?
愛、平安とくればリアリティというのはどうなんだ?、ということになりそうですが、私はこの三つのことは、別々のものとして言い表していないのです。愛、安らぎの感じられないリアリティというものは無い!、だから愛、平安はかくもリアルなものなんだ!
逆説的ですが、それが究極の真理というものなのでしょう?
真理の探究だ、悟りだ、なんだと躍起になってても、留まることを知らず、落ちるところがありません。 いつ獲得出来るのか、境地に到達するのか分かりません。
それが嵩じると、不満足、不十全感がつのり、神的なもの、そのダメな自分自身に対しても不信感が起きたりして、不幸を背負ってしまうことにもなりかねません。
何とご苦労さんなことじゃありませんか?
こういう歩み方というのは、最初からその神的なものを信頼していなかった、ということが言えるでしょう。真摯に意識を向け、祈っていた訳ではなかったのです。
つまり、真理というものと神は切り離されていたということでしょう。
もし、真摯に神と向き合っていたなら...幸福則ち~愛、平安、リアリティを感じずにおれなくなるはずです。神を離れてそういうものなどあろうはずが無いのです。勿論、悟りというものも!...誰も神的なもの無しにそれらに与ることは出来ないのです。
こうしたことを言い換えれば、真理といったものを対象にして、追い求めるので無しに、神を自分に、否”神の方が自分にハタラキたもう”ことを意識するということになるでしょう。
つまり神を対象にしないということ...神は本当は対象にはならないのです。
そこには、神を対象にする、神そのものでない何かを得んがためにそうしようとする自我意識ばかりがあるのです。自我とは、自分と自分以外のものを分けようとするものだから!
神は本来、その自己を在らしめるもの、自己と切り離されないものなのです。
そして、神と切り離された時、愛、幸福を失ってしまうに至るのです。
だからいつも言うように、思い、為そうとする自分からは、何も始まってこない、開かれてこない、というのです。
然るに、宗教だとか信仰だとか散々語られていても、神そのものは、神棚に上げっぱなしになっている事態が何と多いことか?
私はますます、神が私にハタラキ、顕わになってくるのを感じて、かく言い表さずにおれません!








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