人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

書かざるを得ないこと

2024-10-14 09:41:53 | 意識、照明
知ったことは、行いとして表さなければならない、と昔から世の中では言われたりします。誰かから圧を受けているように!...
中国の陽明学では、これに関連して”知行合一”と説いていました。
要するに、頭で考え、知ったりしていても何にもならないのだから、行わなければならないのだ、と。
しかし、何でも行動すればいいということにはならないですよ。
例の反面教師のように、”あ、やっちゃった!、軽はずみで不適切なこと書いちゃった!、削除しなきゃ!”、なんてのは、やらなければよかった、ってことになるじゃないですか?
こういうことは、考えることと行うこと(これ自体”行動パターン”として認識されているくらい、行動というものが重要視されているようであるが)しか認識されていない、世の中の人間の在り方に基づいた例と言えるでしょう。
ここには、いつも言うように、人間の在り方ということなら、もっとそれに直結した、根本的な意識的な在り方というものが蔑ろにされているのです。
例えば、幸福について考えるだけだったら、そう考えるだけですね。(ヘンな言い方ですが)
だから、それを得んがために何かをやろうとします。しかし、やんなきゃよかった、ってことになるかもしれないのです。
しかし又、考えなくても、行わなくても意識レベルで幸福に与っちゃったらどうしますか?
何かやり間違いにつながるような行動に移さなければならないでしょうか?
これは、自己の在り方として、既に決定されてしまっているのです。それは自分の意志を超えたところで、ということなのですが...
だから、考えなくても分かるではないか?...”幸福に与って在ること”が肝心なことなんだから、寝てようと、何かを始めようとどちらでもいいのです。
そんなことより、人間は何をしようかと考える、それを実行に移すことでなくとも、無意味でも何でも、何かをやっているものなのです。
意識的なことというのは、そういうあらゆる人間の在り方のベースとなるものなのであり、そこには、思考と行動という二元性は無く、その基層にあって統合されていると言えるでしょう。
つまり、意識レベルで幸福に感じているのなら、それについて考えているだけでも幸福なはずなんです。(皆さんもそういう経験あるでしょ?)
しかし、大体において、幸福に感じているのなら、ジッとしていられなくなるのが普通で、そうなると、何をやっても幸福なはずです。(でしょ?)
こうなると、”何かをやらなければならない”、なんて何かに縛られるような思いなどしなくても済むのです。(要するに思いの縛りから自由なことが幸福なことなんだ!)
先の陽明学の”知行合一”なんかは、(よく知らんけど)おそらくこういうことを言っているのではないかと思われます。
昔はとにかく、この意識のことは、よく知られてなくて、心とか精神のこととか、思考とごっちゃに理解されていたようです。
意識的なことは、在り方と直結していると言いました。だから、あなたが意識していることは、まんまあなたを映し出していると言ってもいいのです。(陽明学はこれを言っているのは確かなことです)
どうして、私は今日もこういうことを書いているのか?、んなことは分かりきったことではないか!
書いちゃうんだからしょうがない!...意識的なことは、”ねばならない”ことじゃなく”やらざるを得ない”、書かざるを得ないことなのです!...

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今は草木ものを言う時

2024-10-13 09:10:38 | 雑感
時折、自分の書いた記事を読み返してみて、我ながら驚いてしまうことがあります。
”一体、これは誰が書いたのか!”、と...
”特別な修行も無しに、神の臨在のようなものに与ってしまったのだ、とか意識するだけでそうなってしまうのだ、とか...
これは余程の天才か、ほら吹きにしか書けまい!...
で、書いてるヤツはというと...ふははは!...アイツか、あの半分世捨て人のようなヘタレ、何の取り柄の無い人間ではないか!...ちっとは文章力があるらしいが、一流の宗教家か哲学者気取りでいやがる!...ヤツを見たら分かるではないか?...こいつあ、信用出来ない”、と!...

そうです!...多分、私が自分の分際も弁えず、いつもそのようなことを書いているのは何かの間違いなんでしょう?...
一流の宗教家や哲学者に比べたら、そりゃあ、足下にも及ばないですよ。だから別に信じてもらわなくてもいいのです!
けどね...これは、ただ私の意志だけだったら、そんな世迷い言などやらんでもいいでしょう!
しかし、どうにもこうにも迫られる、促されてしまうんだからしょうがない!
だから、こうして”草木ものを言う”ようなことをして、否やらされている訳なのです!
今のこの時は...草木ものを言っているぞ!、石が叫んでいるぞ!、ハエ取りグモが何かのお告げをしているぞ!...
私は、そういう時代相というものを感じてならないのです。
つまり、今は、偉大な宗教家、哲学者、霊性のマスターといった、特殊な人間だけが何かの真理を語り、それに与る時代では無くなって来た、ということなのです!
全く持って、それはあなたや私に開かれるものでなくて何であろう!
あなたや私が救われずして誰が救われるだろう!
何のための宗教的真理、霊性の教えなのか?
それは、エライ誰かへのお追従を通してしか与ることが出来ないものなのでしょうか?
それには、特定の教えやメソッドに従わないと得られないものなのでしょうか?
私は、草木を代表してかく言わざるを得ない!
”何の取り柄も無い私に、直々に神的なものが臨みたもうた”、と!
だからだから、特に強調したいことはこのこと...神の方が臨んでこられたのです。
人間の都合では間違いとしか思えないことでも、今はこうあるべきという、常識などグラついてしまうことばかり起こっているではないか!
そう、人間の思いを超えたことが始まっているのです!
草木ものを言い、石が叫んだとて多分バチは当たるまい!...
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宗教哲学と体験

2024-10-12 10:11:57 | 哲学・思想
私は元々宗教的な人間であることを自覚しています。
物心付いた時から神を信じていました。
”え、ということは二世信者なのか?”...そおじゃないって~の!
もう、イヤになりますよ!、宗教に関心がある、関わっていると言ったらこういう風に宗教団体の信者のように見られてしまうのです。
宗教団体と関わったことがあるのも事実ですよ。ですが、そういうことよりも何よりも、私の人生は、”宗教そのもの”を抜きにしては語れないと言っていいのです。このことは、いつも”私は、私を超えたもの無しにはあり得ない”、と言っていることからも知られるでしょう?
人生におけるある啓発を受けた体験、精神的覚醒、これらは宗教的な関わりがあろうと無かろうと、宗教学的方面では、宗教的体験、回心と呼び慣われています。
このことを真摯に向き合う学者は、宗教学者全般ではありません。多くは、宗教哲学者と呼ばれる人たちです。
然るに、宗教団体のその集団性と結び付く、巷で理解される宗教なるものと、個己の実存的霊性を究明し、明らかにする宗教哲学とは、その意識の向かう先、在り方などにおいて、何と隔たりがあることでしょうか?
いつも私が愛読している宗教哲学の本というと、鈴木大拙、玉城康四郎、八木誠一、ベルジャーエフ、ブーバーなどの諸先生のものですが、よくよく考えてみれば、私はほとんど、著者自身の直接体験に裏付けされたものをベースに、思弁を重ね、究明してゆくという著述の在り方にしか接したことが無いのです。
つまり、宗教哲学と呼ばれるジャンルの書物は、そういうものしか読んだことが無いと言ってもいいのです。
この学者たちは勿論、哲学的なコ難しい概念、言葉を用いて表現しているのですよ。だけど言わんとすること、それを指し示しているものは、概念、言葉を超えたものなのです。その多くは、抽象的な観念に浮いたことをこねくり回してなどしていません。
中には、直接体験に裏付けられていない、そういう抽象論に終始している宗教哲学もあるかもしれませんが、私にはそういうものは、読むに値しないと思うから、読んだ記憶が無いのでしょう。勿論、宗教全般に関するものなら別ですよ。
そうして、”あ、これは言い得ているな”、とか”これは、一寸突っ込みが足りないな”、とか偉そうに批評家気取りでも無いですが、そう感じるままに親しんでいる訳です。
で、何で、”おっ!、これは直接体験から言ってんだ!”、ことが分かるかというと、何でやろう?...まあ、私もそりゃ、色々な体験もさせてもらっていますが、それが真実なのか、正しいのかどうかは知りません!...
中には、”あ、これは私ん時とおんなじではないか!”、と感じるものに出くわすこともあります。それで、”こういうエライ先生が言ってんだから、これは...”、なんて思ってても、本当かどうか分かりゃしません。いや、だからね、そういう風に権威になびくことが間違いなんだ!
ベルジャーエフはこう言う「私は論証などしない、私の思想は、結論から表される」
私が親しんで来た宗教哲学は、ほとんどがこういう調子なのです。
論証、証明され得ないのだから、真実か正しいのかは分からなくて当然なのです。
ただ、そこには宗教的体験に与ったものだけが知る、暗黙の了解のようなものがあるのでしょう。
それは、多分、多くの宗教の宗祖たちは、有していたであろうものから離れた、教えのドグマ、信仰、修行のマニュアルに堕した世界からは、到底理解することなど出来ないものでしょう。それらは、本来の宗教からは程遠いと言わねばなりません。
その命脈は、ホンモノの宗教哲学者たちによって守られ、究明されて来、そして明らかにされてゆくのでしょう!...

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私一人の救い

2024-10-10 09:19:02 | 雑感
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」(歎異抄)

私は人が如何に悟るとか救われるか、ということは知らないのです。
世界が平和になるのかどうかということも!...
まして、自分が悟っても救われてもいないのに、私が人を世界を救うなどというのはおがましい限りです。
しかし、こうして今、書いているだけで言葉にならない、平安に与っているのです。
いつも偉そうに、”思いを超えなければならない!”、などと口幅ったいこと言ってますが、私はいつもいつもその思いのがんじがらめ地獄に苦しんでいたのです。
そういう思いも悪しき欲望も次から次に起こってきて、自分で抑えることが出来ません。いや、今でもそうなんですよ!
だけど、その状態だけに閉じ込められることは無くなりました。思いを超えた世界が開かれ、そこから恩寵の光が差し込むではありませんか!
又、ものの本当を知るとは一体どういうことなのか、目の当たりにするとはどういうことなのか?...いつも私の前には分厚いベールのようなもので覆われていて、直に見る、触るということが出来ない感じしかない...どんなにその向こうにあるものにまみえたいと望んだことか!
だが、今、ここに向こうの方から臨んでくるものをアリアリと感じているのです。
これはささやかな救いかもしれないが、見方、感じ方を変えれば、あるいは大きな救いと言えるかもしれません。
何にせよ、このことを記さずにおれません。私一人のために!
こんな世捨て人の、浮き世離れした話など誰にも信じてもらわなくてもよい!
元より私一人の身に起こった、与ったこと...人がどうのこうの、人と比較して、上だの下だののことは知ったこっちゃないではないか?
オンリーワンの私に起こった、与ったことなのです!
このことを伝えずにおれません。
誰が読み、理解するのかあずかり知れないことだけれど...
私にあったことは、私だけにしかない、などと何で言えようか!
私一人...それは、一人であってもこの私だけのことではないのです(?)
私は私を超えたものと共にある!
それが私のささやかな、あるいは大きな救いの中身だったのです!




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自覚と照明

2024-10-08 09:26:07 | 意識、照明
精神的な道においては特に、それのみならず日常生活の上で、自覚意識を持つことが如何に重要か、ということは論を待たないことでしょう。
自分が病気であるという自覚が無ければ、それを癒やすことが出来ないのです。
自分の性格の大きな欠点を自覚出来なければ、何かと生きる上で支障が絶えないでしょう。例えば自我性、エゴがやたら強いこととか...自覚出来れば歯止めがかけられ、修正が出来るのです。
しかし、よくよく考えてみれば、この自我性というのは分かりやすいですが、自我は自我を自覚することが出来ないのですね。自我に囚われていることは、言うまでもなくその限界を超えられないということなのですから!
自覚意識があるということは、それを超えたものから来るということに他ならないのです。
私はこれまで何度か、自己観察、自己をみつめることなどについて、それは自分を超えたものからの、私が”照明”と呼んでいるものから来る、ということを言って来ました。
この自覚作用は、より広い日常生活に溶け込んでいることであり、そのためか、私もこれまであまり気付くことが出来なかった(自覚出来なかった)ことなのです。
つまりそれは、我々が特に神的なもの、超越者といったものを意識せずとも、何気なく感じているもので、我々本来からあるものとして認識されているものなのでしょう。
だけど、それは我々の思いを超えたものに違いはないのです!...このことをもっと意識すれば、そのことが有りやかに、そう、自覚的に感じられて来るでしょう。
先のとおり、自覚があるということは、己の自我性を知ることが出来、それを克服することも出来るということでしょう。しかしそれは、正確には自己に照明が照らされることによってなされることなのです。
自我を克服しようとする人間は、反省、内省、自分をみつめることが出来ます。しかし、大抵それは、自分が自分をみつめることだと思っているのでしょう?
そうすると、元よりそれは出来ないことなので、出来ない自分にストレスを感じたり、自責の念に苛まれることになるのではありませんか?
しかししかし、それはあなたを超えたものからなされる!...これは、実に大きな福音と言わずして何であろう!
いやいや、”人間存在は、本来から一個なる自分を超えた、神的なものと一つのものであった!”、このことが福音なのではないでしょうか?
考える人間だけでなっている人間は、元より機能不全の自我性に支配されている状態だったのです。
いつも言うように、自分を超えたものに意識を向けることにより、いつの間にか、”自分には、いつも神的なものと共にあり、そこから光を受けて生きているのだ!”、ということを実感出来るようになるでしょう!...
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