人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主一無適

2025-02-19 06:55:42 | 祈りと瞑想
祈る、瞑想してみる...
自分を超えた神、あるいは内なるものに意識を向ける...
否、そう意志想念で向けようとしなくても、自ずと向いてしまう...
自ずとある中心へと意識が集められる...
自ずと意識が統一、帰一されてゆく...

このようにごく単純に祈り、瞑想に向かう意識状態は、一つ、一なるものとならざるを得ないものです。
純粋な、何も付け足さない祈り、瞑想であるならば!...
ただ自分の思い、力を超えたもの、あるいは一コの考える自分に元々内在している、本来の自己、真我につながるだけの祈り、瞑想...実にそれだけのものがそのすべてのものということが分かるでしょう。
然るに、世の中で祈り、瞑想と称しているものの多くには、何故諸々の雑多なものをそれに付け加えるものが存在しているのでしょうか?
ことに瞑想に関して、足をどう組む、どう印を組むか、呼吸は何回行うか、何の神、どの神をイメージするのか、神名のマントラを何回称えるのか、どのチャクラに精神を集中するのか?
どの神、何段階かありそうな内のどの自分に心を集中するのか...
こんなややこしくては、意識の統一、帰一は困難になるだけで、むしろ分裂するだけではありませんか?
それに、神には善神、悪神が居る、神を超えた境地を目指さなければならない、というような意識がここに落ち着くこと無く、あちこちに浮遊してゆくような、面妖な教説がそれに拍車をかけてゆく...
いや全く、ナンセンスなことではありませんか?
瞑想したばかりに偏向、分裂した、精神的にも肉体的にもバランスを欠いた、“ヘンな人間“になってしまうのですよ!
祈りに関して、神社でも寺でも、主神、本尊というものが祀られているものです。摂社や末社はともかく、本社には一つの主神が祀られているのです。
二神では無く一神です。二神では二心になるだけですよ。
祈るということも瞑想と同じことで意識が一つになることです。
統一...これは、先の通り自分の思いで、二つのものを一つに統一するのでは無くて、二つのものが自ずと一つになるようなことです。神が統(す)べる、すべてのものと言えるでしょう。
神を意識すればそうならざるを得ない...内在する自己、真我(主人公)でも同じことであるのは言うまでもありません。
神は一つ、主は一つ、自己実存は一つ...だから、祈り、瞑想は“主一無適“でなければならないのです。
何年、何十年祈りや瞑想していても一向に進展が見られないのは、それに純一、主一にならないことにその要因があるのではありませんか?
自分の思いを超えたもの、内在しているものを頂き、ゆだねる...自然に思いは超えられ、本心が開かれるように導かれるのではないでしょうか?
それを自ら進んで、雑多な、統一、帰一に導かれないものに、心を許してしまう向きなどは何をか言わんやではありませんか?!...




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