以前、私がいつも何かとイジっている、あの反面教師の画伯から、「あなたは、“パッと神に意識を向けるだけで、神が臨んで来てそれにゆだねられる“、と言うけど、そのように出来たらいいですよ、私には出来ないんだ!」と向けられたことがありました。
そりゃ、そうですよ。私にも出来ません!
この人は、そのことを自分がやること、やって出来ることだと思い込んでいるのです。
自分の意志想念で、神的なものが臨在して来るのでは無い。そういう思いを超えて顕わになるものがあるのでそれにゆだねられる、というだけのことです。
それは寒い冬の日に、暖かい日差しが照って来るからそれにゆだねられるようなものです。
といっても、取っ掛かりとしては、自分が意志して思いを向けるというか、祈るということはあるんですよ。この人だって五井先生に習っていつも祈っているんじゃないのか?
やっぱり、自分でやろうという思いが強いんだろう...いや、それよりもそういう一心に、真っ直ぐに神に思いを向けよう、祈ろうとする意識を妨げるような、考えても分からないようなあの世のこととか予言、陰謀論などのことに囚われる思いが強いのでしょう。
この人も時折は、“こんなことにいつまでも囚われていてはダメだ、神に、本心に立ち返り、思いを向けなければダメなんだ“、とか思うようなのですが、それが定着すること無く、何かそれから外れるものに心が触れたりすると、ズルズルと引きづられて行くらしいのです。
そういうカルマというか、思いのクセ、くん習があるようなのです。
要するに、神にゆだねることが出来ないのでは無くて、そういう思いから離れることが出来ないのです。やめようと思ってもやめられないからくん習なんでしょう。
私にもそういう神、本心から脱線する思いというのもありますよ。いや、この人のことをやたらとイジリ倒す思いというのも何かの因縁というか、くん習なのでしょう?
けど、それ以上にそういう思いを超えて、あの現臨にあって、愛、平安に与ることが知られているのです。それによって思いから離れられるのです。
それを知っているから、いつまでも思いが囚われ、ぐるぐる回り、くすぶり続けるということはありません。
これは一つには、先の興味本位だけの、上辺の思いから精神的な道を求めることで、コワイ目、イタイ目に会っているので、身を持ってそのマイナス面を知っているということもあるのですが、何よりも、その思いを超えた天来の一撃を受けたことが大きいのです。
自分の思いに囚われているのだから、自分の思いでどうとかこうとか、中々出来るものではありません。それを超えたものの導き無しでは!...
だからそれを一心に求めるのではないですか?、祈りを持って!
前世のカルマなんて言っても分からないですが、思いのクセ、くん習から離れられるのは、それを超えたものから幸福がもたらされるからです。そのことを思ってるだけでなく、身を持って知らなければなりません。
それに与るならば、自ずとそれから外れることには思いが向かなくなります。
これはやっぱり祈りから開かれるとしか言いようがありません。純一、主一なる祈り...
このことをしっかり意識することで、横(邪)さのものには囚われなくなります。
出来ない?...自分の思いでは出来なくとも、神を求めずにおれない、一つにならずにおれないという本心というものがあるではないか?
段々迷った自分が本当の自分、真我になるとでも?...自分がどんなにダメ、悪かろうが本心というものはあるでしょう。
本心に目覚めるに遅すぎるということはありません。その気が無いのなら、本心が分からないというなら、多分生まれて来るのが間違っているのでしょう?...
そりゃ、そうですよ。私にも出来ません!
この人は、そのことを自分がやること、やって出来ることだと思い込んでいるのです。
自分の意志想念で、神的なものが臨在して来るのでは無い。そういう思いを超えて顕わになるものがあるのでそれにゆだねられる、というだけのことです。
それは寒い冬の日に、暖かい日差しが照って来るからそれにゆだねられるようなものです。
といっても、取っ掛かりとしては、自分が意志して思いを向けるというか、祈るということはあるんですよ。この人だって五井先生に習っていつも祈っているんじゃないのか?
やっぱり、自分でやろうという思いが強いんだろう...いや、それよりもそういう一心に、真っ直ぐに神に思いを向けよう、祈ろうとする意識を妨げるような、考えても分からないようなあの世のこととか予言、陰謀論などのことに囚われる思いが強いのでしょう。
この人も時折は、“こんなことにいつまでも囚われていてはダメだ、神に、本心に立ち返り、思いを向けなければダメなんだ“、とか思うようなのですが、それが定着すること無く、何かそれから外れるものに心が触れたりすると、ズルズルと引きづられて行くらしいのです。
そういうカルマというか、思いのクセ、くん習があるようなのです。
要するに、神にゆだねることが出来ないのでは無くて、そういう思いから離れることが出来ないのです。やめようと思ってもやめられないからくん習なんでしょう。
私にもそういう神、本心から脱線する思いというのもありますよ。いや、この人のことをやたらとイジリ倒す思いというのも何かの因縁というか、くん習なのでしょう?
けど、それ以上にそういう思いを超えて、あの現臨にあって、愛、平安に与ることが知られているのです。それによって思いから離れられるのです。
それを知っているから、いつまでも思いが囚われ、ぐるぐる回り、くすぶり続けるということはありません。
これは一つには、先の興味本位だけの、上辺の思いから精神的な道を求めることで、コワイ目、イタイ目に会っているので、身を持ってそのマイナス面を知っているということもあるのですが、何よりも、その思いを超えた天来の一撃を受けたことが大きいのです。
自分の思いに囚われているのだから、自分の思いでどうとかこうとか、中々出来るものではありません。それを超えたものの導き無しでは!...
だからそれを一心に求めるのではないですか?、祈りを持って!
前世のカルマなんて言っても分からないですが、思いのクセ、くん習から離れられるのは、それを超えたものから幸福がもたらされるからです。そのことを思ってるだけでなく、身を持って知らなければなりません。
それに与るならば、自ずとそれから外れることには思いが向かなくなります。
これはやっぱり祈りから開かれるとしか言いようがありません。純一、主一なる祈り...
このことをしっかり意識することで、横(邪)さのものには囚われなくなります。
出来ない?...自分の思いでは出来なくとも、神を求めずにおれない、一つにならずにおれないという本心というものがあるではないか?
段々迷った自分が本当の自分、真我になるとでも?...自分がどんなにダメ、悪かろうが本心というものはあるでしょう。
本心に目覚めるに遅すぎるということはありません。その気が無いのなら、本心が分からないというなら、多分生まれて来るのが間違っているのでしょう?...