(つづき)
今回廃止となる「野芥二丁目」バス停について書こうと思うのだが、残念ながら廃止までに現地に行く時間がなさそうなので、画像は車内の「お知らせ」で代用させていただくことにする。
書いていくうちにいろんなことを思い出して、このあといつも以上に話があちこち飛ぶのでご容赦を。
現在、「野芥二丁目」を通る土曜夜に一本だけの免許維持路線「無番 四箇田団地→福大病院」は、「一週間に一本だけ」になる前は概ね90分間隔で運行されていた(90分間隔になる前は約60分間隔)。
もともとは「12番 福大線」の複数の行先(福大前、片江営業所、福大病院、西油山ハイツ、早良高校など)の中の一つとして「四箇田団地行き」があったのだが、福大病院から西側に行くものの廃止(通学用の早良高校行きを除く)の際に「四箇田団地~野芥~福大病院~片江営業所」という区間便として残ったものである(のちに片江営業所まで行かなくなり福大病院までに短縮)。
この区間便は基本的には「無番」なのだが、初期の頃は「12番」を掲げるものがあったり、「方面色」もオレンジ色だったりブルーだったりで、結構いいかげんだった印象がある。
「12番」に「四箇田団地行き」ができたのはそこまで古くはなく、おそらく1986年頃だと思う(十分古いか…)。
中学一年生の頃、「九重キャンプ」という学校行事の帰りの貸切バスの中から、県道大野城二丈線の西行きに「野芥」の新たなバス停が建っているのを目撃し、帰宅後疲れも忘れて急いで自転車で確認しに行った記憶がある。
現在は、急いで確認しに行った「野芥」のバス停には梅林方面から来た「114番」などが停車しているが、以前は梅林方面から来て野芥三丁目方面へ向かう便(「12番」「14番」の西油山ハイツ行きなど)は野芥交差点を曲がった後、早良街道上にあった乗り場に停車していた。
早良街道南行き上に「12番」「14番」の専用乗り場ができるさらに前は、県道大野城二丈線上(前述の「急いで確認しに行った場所」)に停車していたのだが、その当時そこにはバス停の標柱はなかった。
「標柱のないところにもバスが停まることがある」という事実を、私が初めて知った場所でもあった(その頃は、ひとつ前の「西梅林」は「市牟田池」、さらにひとつ前の「東梅林」は単に「梅林」という名称だった)。
なお、私が幼い頃は「野芥」から南、「早良妙見口」までの間にはバス停がなかった。
「野芥三丁目」「野芥四丁目」ができたのは今から30年ちょっと前のことだと思う。
「野芥三丁目」の南で新道と旧道に分岐して、現在は新道のほうが「早良妙見西口」、旧道のほうが「早良妙見東口」となっているが、以前はどちらも「早良妙見口」であった。
「早良妙見口(早良妙見東口)」にはバスの折り返し場があり、幼い頃は好きなスポットであった。
「西口」と「東口」の間に「早良妙見」に相当するものが見当たらず、永らく疑問だったのだが、「早良妙見」とは、「早良妙見東口」から南東方向に坂を登った「西油山ハイツ」のさらに先にある寺院「徳栄寺」のことを指すようである(付近には妙見滝という滝や、地図にはあまり出てこないが妙見山という山もあり)。
ということは、「早良妙見西口」「早良妙見東口」という名称は本来適切ではなく(「姪浜駅東」を「姪浜東駅」とするようなものである)、「早良妙見口西」「早良妙見口東」でないといけないはずなのだが、おそらくそういうことは何も考えずに、「西口」「東口」という「語感の良さ」を優先して名前を付けたものと思われる(たしかに「早良妙見東口」は、七五調のリズムで心地よい)。
ただし、あくまでこれらは私の推定であり、「西口」と「東口」の間に、目立たないながらも「妙見」に相当するものがある可能性もある。
「野芥」のひとつ北、「野芥一丁目」は以前は「農協前」という名称で、その次は「干隈」であり、「城南郵便局前(当初は干隈郵便局前)」も(私の中では)意外に新しい。
地下鉄野芥駅の最寄りバス停が「野芥一丁目」ではなく「農協前」だったら、それはそれで面白かったかもしれない。
「野芥二丁目」(当初は「西脇」という名称)に初めてバスが通ったのは、当初は北側の「歯科大通り」を経由していた「3番」の歯科大行きが、経路を南側にシフトして野芥~田隈小学校前~田隈新町経由となったときである。
「歯科大通り」には、「3番」がなくなってしばらくして(1987年頃?)、「209番」が走りだしたが(田隈四角~田隈新町間)、これもまた廃止となっており、「歯科大通り」を通るバス路線は「二度死んだ」ことになる。
この先、さらなる復活はあるだろうか?
以前、「多くのバスが通る2つの道路に挟まれた地域は、相対的に本数が減る傾向にある」と書いたことがあったが、「野芥二丁目」の廃止で、その傾向がさらに強まった。
藤崎~原~金武方面の「2番エリア」と、西新~荒江~脇山方面の「3番エリア」をつなぐラインは、「四箇田団地入口(もしくは四箇)←→重留」から「原←→荒江四角」まで何もないという状態になってしまい、「横の移動」がほとんどできない(「賀茂一丁目←…→星の原団地」は実質的につながっているのかもしれないけど)。
バスの代わりに、地下鉄七隈線が「横の移動」を助けているとみることもでき、「役割分担だ」といってしまえばそれまでなのだが、バス路線単独で見ると「ネットワーク」崩壊がさらに進むことになり、残念な限りである。
なお、都市計画道路長尾橋本線のうち、原往還付近←→飯倉二丁目間の拡幅事業がようやく動き出したので、将来はこの区間にバスが走る日が来るかもしれない。
(つづくかも)
今回廃止となる「野芥二丁目」バス停について書こうと思うのだが、残念ながら廃止までに現地に行く時間がなさそうなので、画像は車内の「お知らせ」で代用させていただくことにする。
書いていくうちにいろんなことを思い出して、このあといつも以上に話があちこち飛ぶのでご容赦を。
現在、「野芥二丁目」を通る土曜夜に一本だけの免許維持路線「無番 四箇田団地→福大病院」は、「一週間に一本だけ」になる前は概ね90分間隔で運行されていた(90分間隔になる前は約60分間隔)。
もともとは「12番 福大線」の複数の行先(福大前、片江営業所、福大病院、西油山ハイツ、早良高校など)の中の一つとして「四箇田団地行き」があったのだが、福大病院から西側に行くものの廃止(通学用の早良高校行きを除く)の際に「四箇田団地~野芥~福大病院~片江営業所」という区間便として残ったものである(のちに片江営業所まで行かなくなり福大病院までに短縮)。
この区間便は基本的には「無番」なのだが、初期の頃は「12番」を掲げるものがあったり、「方面色」もオレンジ色だったりブルーだったりで、結構いいかげんだった印象がある。
「12番」に「四箇田団地行き」ができたのはそこまで古くはなく、おそらく1986年頃だと思う(十分古いか…)。
中学一年生の頃、「九重キャンプ」という学校行事の帰りの貸切バスの中から、県道大野城二丈線の西行きに「野芥」の新たなバス停が建っているのを目撃し、帰宅後疲れも忘れて急いで自転車で確認しに行った記憶がある。
現在は、急いで確認しに行った「野芥」のバス停には梅林方面から来た「114番」などが停車しているが、以前は梅林方面から来て野芥三丁目方面へ向かう便(「12番」「14番」の西油山ハイツ行きなど)は野芥交差点を曲がった後、早良街道上にあった乗り場に停車していた。
早良街道南行き上に「12番」「14番」の専用乗り場ができるさらに前は、県道大野城二丈線上(前述の「急いで確認しに行った場所」)に停車していたのだが、その当時そこにはバス停の標柱はなかった。
「標柱のないところにもバスが停まることがある」という事実を、私が初めて知った場所でもあった(その頃は、ひとつ前の「西梅林」は「市牟田池」、さらにひとつ前の「東梅林」は単に「梅林」という名称だった)。
なお、私が幼い頃は「野芥」から南、「早良妙見口」までの間にはバス停がなかった。
「野芥三丁目」「野芥四丁目」ができたのは今から30年ちょっと前のことだと思う。
「野芥三丁目」の南で新道と旧道に分岐して、現在は新道のほうが「早良妙見西口」、旧道のほうが「早良妙見東口」となっているが、以前はどちらも「早良妙見口」であった。
「早良妙見口(早良妙見東口)」にはバスの折り返し場があり、幼い頃は好きなスポットであった。
「西口」と「東口」の間に「早良妙見」に相当するものが見当たらず、永らく疑問だったのだが、「早良妙見」とは、「早良妙見東口」から南東方向に坂を登った「西油山ハイツ」のさらに先にある寺院「徳栄寺」のことを指すようである(付近には妙見滝という滝や、地図にはあまり出てこないが妙見山という山もあり)。
ということは、「早良妙見西口」「早良妙見東口」という名称は本来適切ではなく(「姪浜駅東」を「姪浜東駅」とするようなものである)、「早良妙見口西」「早良妙見口東」でないといけないはずなのだが、おそらくそういうことは何も考えずに、「西口」「東口」という「語感の良さ」を優先して名前を付けたものと思われる(たしかに「早良妙見東口」は、七五調のリズムで心地よい)。
ただし、あくまでこれらは私の推定であり、「西口」と「東口」の間に、目立たないながらも「妙見」に相当するものがある可能性もある。
「野芥」のひとつ北、「野芥一丁目」は以前は「農協前」という名称で、その次は「干隈」であり、「城南郵便局前(当初は干隈郵便局前)」も(私の中では)意外に新しい。
地下鉄野芥駅の最寄りバス停が「野芥一丁目」ではなく「農協前」だったら、それはそれで面白かったかもしれない。
「野芥二丁目」(当初は「西脇」という名称)に初めてバスが通ったのは、当初は北側の「歯科大通り」を経由していた「3番」の歯科大行きが、経路を南側にシフトして野芥~田隈小学校前~田隈新町経由となったときである。
「歯科大通り」には、「3番」がなくなってしばらくして(1987年頃?)、「209番」が走りだしたが(田隈四角~田隈新町間)、これもまた廃止となっており、「歯科大通り」を通るバス路線は「二度死んだ」ことになる。
この先、さらなる復活はあるだろうか?
以前、「多くのバスが通る2つの道路に挟まれた地域は、相対的に本数が減る傾向にある」と書いたことがあったが、「野芥二丁目」の廃止で、その傾向がさらに強まった。
藤崎~原~金武方面の「2番エリア」と、西新~荒江~脇山方面の「3番エリア」をつなぐラインは、「四箇田団地入口(もしくは四箇)←→重留」から「原←→荒江四角」まで何もないという状態になってしまい、「横の移動」がほとんどできない(「賀茂一丁目←…→星の原団地」は実質的につながっているのかもしれないけど)。
バスの代わりに、地下鉄七隈線が「横の移動」を助けているとみることもでき、「役割分担だ」といってしまえばそれまでなのだが、バス路線単独で見ると「ネットワーク」崩壊がさらに進むことになり、残念な限りである。
なお、都市計画道路長尾橋本線のうち、原往還付近←→飯倉二丁目間の拡幅事業がようやく動き出したので、将来はこの区間にバスが走る日が来るかもしれない。
(つづくかも)