女流名人位戦A級プレーオフ1回戦。プレーオフなので振駒。先手は千葉涼子女流三段となり,里見香奈倉敷藤花のごきげん中飛車。③AⅡ△6二玉でした。第1図に。

ここで先手が▲3三同角成と交換し,馬を作りました。先手の馬と後手の持ち角の対抗。第2図へ。

ここで▲4五桂と跳ねていき本格的な中盤戦に。ただ持ち歩の数の差があり,先手はこの時点ですでにやや失敗だったかもしれません。3八に金が上がっているのもあまりよくなく,実戦はこの金が遊び駒で終ってしまいました。この戦いは第3図に。

ここから△6五銀打▲6九飛△6六銀▲同飛△6五金▲同飛△同銀。しかしこれでは先手がいかにも苦しそう。さらに▲6四桂に△5五角と打ったのが攻防の決め手でした。

第4図以下は先手に粘る余裕を与えず,後手が勝っています。
というわけでプレーオフ決勝,挑戦者決定戦には里見倉敷藤花が進出。清水市代女流王将との一戦は15日に指されます。
竜王戦は羽生善治名人の先手で渡辺明竜王の急戦矢倉に。封じ手局面は難しいですが,消費時間に差がありすぎるような気はします。
第二部定理二七もまた,証明しようとするならばふたつの仕方で証明することができます。そしてこのことをそれ自体で,すなわち,人間の身体がある外部の物体の本性を含む仕方で刺激されるときの刺激状態の観念が,自分の身体の観念に関して十全な観念であるか混乱した観念であるかという点から考えれば,これが混乱した観念であるということは,第二部定理二五を証明したのとまったく同じ方法で示すことができるといえるでしょう。すなわち,この観念は自分の身体の本性と同時に,自分の身体を刺激する外部の物体の本性をも含む観念ですから,まさにその物体から刺激を受けるという限りにおいてのみ,自分の身体に関して十全であるとしかいいようがなく,それ以外の意味では自分の身体の十全な観念とはいえないからです。
しかし本筋の証明はやはり神のうちにある観念と関連させる方法です。すなわち,ある人間Xの身体が外部の物体Aによって刺激を受けるとき,確かに神のうちにはXの観念があるとはいえるでしょう。しかしこの観念は,XがAに刺激される限りでのみ神のうちにあるということができます。そこでもしも現実的に存在する人間の身体が,現実的に存在する限り常にAによって刺激され,かつA以外の一切のものには刺激されないとしたら,神のうちにある現実的に存在するXの観念は,常にこの様式であるでしょうから,これはXの十全な観念です。しかし第二部自然学②要請六からして,これを主張することは不条理ですし,これは単に経験的に考えてもそうでしょう。したがって神のうちにあるこのXの観念は,XがAに刺激される限りでのみ神のうちにあり,Xが別の物体たとえばBに刺激される限りでは神のうちにはありません。いい換えればXの観念は,これ以外の仕方でも神のうちにあることになります。よってこの観念は,単にXに関係付けられる限りでは,十全な観念であるということはできないということになります。

ここで先手が▲3三同角成と交換し,馬を作りました。先手の馬と後手の持ち角の対抗。第2図へ。

ここで▲4五桂と跳ねていき本格的な中盤戦に。ただ持ち歩の数の差があり,先手はこの時点ですでにやや失敗だったかもしれません。3八に金が上がっているのもあまりよくなく,実戦はこの金が遊び駒で終ってしまいました。この戦いは第3図に。

ここから△6五銀打▲6九飛△6六銀▲同飛△6五金▲同飛△同銀。しかしこれでは先手がいかにも苦しそう。さらに▲6四桂に△5五角と打ったのが攻防の決め手でした。

第4図以下は先手に粘る余裕を与えず,後手が勝っています。
というわけでプレーオフ決勝,挑戦者決定戦には里見倉敷藤花が進出。清水市代女流王将との一戦は15日に指されます。
竜王戦は羽生善治名人の先手で渡辺明竜王の急戦矢倉に。封じ手局面は難しいですが,消費時間に差がありすぎるような気はします。
第二部定理二七もまた,証明しようとするならばふたつの仕方で証明することができます。そしてこのことをそれ自体で,すなわち,人間の身体がある外部の物体の本性を含む仕方で刺激されるときの刺激状態の観念が,自分の身体の観念に関して十全な観念であるか混乱した観念であるかという点から考えれば,これが混乱した観念であるということは,第二部定理二五を証明したのとまったく同じ方法で示すことができるといえるでしょう。すなわち,この観念は自分の身体の本性と同時に,自分の身体を刺激する外部の物体の本性をも含む観念ですから,まさにその物体から刺激を受けるという限りにおいてのみ,自分の身体に関して十全であるとしかいいようがなく,それ以外の意味では自分の身体の十全な観念とはいえないからです。
しかし本筋の証明はやはり神のうちにある観念と関連させる方法です。すなわち,ある人間Xの身体が外部の物体Aによって刺激を受けるとき,確かに神のうちにはXの観念があるとはいえるでしょう。しかしこの観念は,XがAに刺激される限りでのみ神のうちにあるということができます。そこでもしも現実的に存在する人間の身体が,現実的に存在する限り常にAによって刺激され,かつA以外の一切のものには刺激されないとしたら,神のうちにある現実的に存在するXの観念は,常にこの様式であるでしょうから,これはXの十全な観念です。しかし第二部自然学②要請六からして,これを主張することは不条理ですし,これは単に経験的に考えてもそうでしょう。したがって神のうちにあるこのXの観念は,XがAに刺激される限りでのみ神のうちにあり,Xが別の物体たとえばBに刺激される限りでは神のうちにはありません。いい換えればXの観念は,これ以外の仕方でも神のうちにあることになります。よってこの観念は,単にXに関係付けられる限りでは,十全な観念であるということはできないということになります。