スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流名人位戦&想像

2008-12-15 19:15:36 | 将棋
 女流名人位戦挑戦者決定戦。これは振駒で先手は清水市代女流王将。里見香奈倉敷藤花はごきげん中飛車。③AⅡで△6二玉。先後がこうなれば十分に予想された展開。先手が2筋,後手が5筋の歩を交換して持久戦になりました。
           
 第1図から先手は手待ちに出ることになりましたので,後手の作戦勝ちなのだろうと思います。後手が1筋を受けていれば先手はさらに困っていたかもしれません。
 ここから後手は飛車を9筋に転換。銀冠の銀を棒銀のように繰り出していきました。模様がよかったと思われるだけに,守備の銀を攻めに使うのは意表の展開。先手は玉を戦線から待避させて第2図。
           
 これを△9五同飛と取ると,▲8五歩~▲8六金のように受けるのでしょうか。展開によっては▲4一角のような手も生じるかもしれません。後手はこれを避けて△9八角と打ちました。ここからの展開は僕には驚きですが,結果,端を突破できずに銀冠の銀を捨ててしまったことになり,後手が著しい非勢になりました。こう進めざるを得ないのでは,そもそも仕掛け方が問題だったでしょう。
          
 ここはもう先手の勝勢に近いと思います。▲9四銀△8四玉▲9三銀打△同飛▲同銀不成△同玉▲7三金くらいでよいように思いますが,▲8六歩△同成香。それで前述の手順ならさらに得のように思えます。実戦の▲8二銀と捨ててから▲6八銀とまた受けに回るのは変調のようにも思えますが,差が開きすぎていました。この後,後手がそこらへんにあるものを何でもかんでも投げつけてくるようなすさまじい粘りに出たので手数はかかりましたが,先手が押し切っています。
 矢内理絵子女流名人への挑戦権は清水市代女流王将が獲得。3年前に3連敗で失冠したときのリベンジ戦になります。

 想起と想像との相違は,最も根本的な部分では確かにこの通りです。ただし,人間の精神mens humanaが事物を想像するということを説明する場合に,単にその人間の精神がまだ知覚したことがない事物を,現実的に存在すると観想するcontemplariことであるとだけいうならば,実際には想像というのはもっと広い意味を持つとも考えられますので,不十分かもしれません。
 たとえば,ある馬を知覚したことがある人間が,後に馬が現前しない状況でその馬が現実的に存在すると観想するならば,これは文句なしに想起memoriaであるといえます。しかし人間の精神が事物を表象するimaginari場合には,第二部定理一八で示されているように,多くの事物を同時に表象するというケースの方が圧倒的に多いです。そこで今,これと同じ人間の精神が,この馬に乗っている自分というのを表象したとします。そしてこの人間は,かつて馬には乗ったことがないと仮定します。経験論的に考えれば,これが無理のある仮定であるとはいえないと思います。
 このとき,もしも馬とか乗っている自分自身といったように,それらの表象像imaginesを単独で考えるなら,それは確かに想起であるといえるでしょう。しかしこの人間は馬に乗ったことがないと仮定されているわけですから,馬に乗っている自分自身の表象imaginatioというように,この表象像をその全体で考えるなら,これは想起というより明らかに想像です。実際に僕たちはこれを想像というでしょう。よって想像には,こうした表象をも含む必要があります。
 したがって,ここでは想像というのをできる限り広い意味で考えたいと思いますので,ある表象像が人間の精神のうちに生じるとき,表象されている各々の事物がそれ単独でみられるならば想起であったとしても,もしもその表象像の全体が,かつてその人間が体験ないしは経験したことがないような事象である限り,この表象に関しては僕はそれをすべて想像の範疇に含めるということにします。
コメント
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