先月の23日と24日に宮地嶽神社で指された第31期竜王戦七番勝負第二局。
広瀬章人八段の先手で角換り相腰掛銀。先手が9筋の位を取って受け身になったので後手の羽生善治竜王から先攻。駒損の猛攻が続くかどうかが一局の焦点でした。

この時点では後手が金と角桂の交換という状況。立ち止まるわけにはいかず☖3五歩と桂頭を狙いつつ戦線拡大。先手は☗2四歩☖同歩の突き捨てを入れてから☗4七角と受けました。
後手は☖6六金と打ち☗6七銀打の受けに☖8九銀☗7七金と下段に追いました。ここでまた駒損が拡大。先手は☗5五角と金取りに打ちました。
後手は☖6六歩。これを☗同角は☖6七金☗同銀☖8七歩で攻めきられてしまうようです。なので☗同金と取りました。
金取りが消滅した後手は角を狙いにいきます。☖4三桂☗6四角☖6三歩がその手順。

ここから後手は☗9一角成☖同飛と取って☗7九香と受けたのですが,この順で角を渡してしまったために先手の攻めが繋がり,そのまま押し切られることになりました。ここでは☗8二銀☖6一飛☗7一銀成☖同飛☗8二角成と,銀を捨てて角を助けるべきだったそうです。ただ,こういう手順でないといけないのなら☗5五角と打ったところで変わる手があるのでなければ,実戦的には後手が指しやすかったといえるのではないでしょうか。
羽生竜王が連勝。第三局は1日と2日に指されました。
7月29日,日曜日。この日も母の様子は前日とほとんど同じでした。僕が着いたときに眠っていて,その後に目を覚まし,少し話をするとまた眠ってしまうという状況です。
7月30日,月曜日。この日は28日および29日に比較すると,母の調子はよさそうに僕には見えました。ただ,体調というのは1日のうちでも一定しているというわけではなく,上下のバイオリズムがあるかと思います。僕はずっと母の様子を見ていたわけではありませんから,この日はたまたま母のバイオリズムのよい時間と,僕の見舞いの時間が重なっただけかもしれません。逆にいえば僕にはあまり調子がよくみえなかった28日と29日も,この日に僕が見たのと同じような調子だった時間帯があったかもしれません。
とはいえ調子がよく見えたというだけで,僕が着いたときに眠っていたのはここ2日と同じですし,話をした後でまた眠ってしまうというのもやはり同様でした。顔色とか声の調子や力強さといった部分が,違うように僕には感じられたのです。このように,話をした後でまた眠ってしまう段階で僕は帰宅するようになりましたので,病院での滞在時間というのはそれまでよりも短くなりました。
この日の夜,母が最後に,つまり退職する時点で勤務していた中学校の同僚であったSさんから電話がありました。僕はそれまでに会ったことはなかったのですが,妹はこの中学校の同窓会に何度も出席していましたから,妹とは顔見知りの方です。母が大腸癌であるということは知っていまして,近況を尋ねる電話でした。すでに緩和病棟に入院していること,現時点で話をすることはできるということ,しかしもう長くはないと思われるので,もし会うということであれば早いうちにした方がよいであろうといったことを伝えました。
7月31日,火曜日。この日が伯母が帰国する日でした。朝のうちに家を出て,母を見舞い,そのまま空港に向いました。伯母と母が会ったのはこの日が最後になったわけです。
僕は午後から見舞いに行きました。この日も僕が着いたときには眠っていて,少ししてから目覚め,ベッドを起こしたのはそれまでと同様です。
広瀬章人八段の先手で角換り相腰掛銀。先手が9筋の位を取って受け身になったので後手の羽生善治竜王から先攻。駒損の猛攻が続くかどうかが一局の焦点でした。

この時点では後手が金と角桂の交換という状況。立ち止まるわけにはいかず☖3五歩と桂頭を狙いつつ戦線拡大。先手は☗2四歩☖同歩の突き捨てを入れてから☗4七角と受けました。
後手は☖6六金と打ち☗6七銀打の受けに☖8九銀☗7七金と下段に追いました。ここでまた駒損が拡大。先手は☗5五角と金取りに打ちました。
後手は☖6六歩。これを☗同角は☖6七金☗同銀☖8七歩で攻めきられてしまうようです。なので☗同金と取りました。
金取りが消滅した後手は角を狙いにいきます。☖4三桂☗6四角☖6三歩がその手順。

ここから後手は☗9一角成☖同飛と取って☗7九香と受けたのですが,この順で角を渡してしまったために先手の攻めが繋がり,そのまま押し切られることになりました。ここでは☗8二銀☖6一飛☗7一銀成☖同飛☗8二角成と,銀を捨てて角を助けるべきだったそうです。ただ,こういう手順でないといけないのなら☗5五角と打ったところで変わる手があるのでなければ,実戦的には後手が指しやすかったといえるのではないでしょうか。
羽生竜王が連勝。第三局は1日と2日に指されました。
7月29日,日曜日。この日も母の様子は前日とほとんど同じでした。僕が着いたときに眠っていて,その後に目を覚まし,少し話をするとまた眠ってしまうという状況です。
7月30日,月曜日。この日は28日および29日に比較すると,母の調子はよさそうに僕には見えました。ただ,体調というのは1日のうちでも一定しているというわけではなく,上下のバイオリズムがあるかと思います。僕はずっと母の様子を見ていたわけではありませんから,この日はたまたま母のバイオリズムのよい時間と,僕の見舞いの時間が重なっただけかもしれません。逆にいえば僕にはあまり調子がよくみえなかった28日と29日も,この日に僕が見たのと同じような調子だった時間帯があったかもしれません。
とはいえ調子がよく見えたというだけで,僕が着いたときに眠っていたのはここ2日と同じですし,話をした後でまた眠ってしまうというのもやはり同様でした。顔色とか声の調子や力強さといった部分が,違うように僕には感じられたのです。このように,話をした後でまた眠ってしまう段階で僕は帰宅するようになりましたので,病院での滞在時間というのはそれまでよりも短くなりました。
この日の夜,母が最後に,つまり退職する時点で勤務していた中学校の同僚であったSさんから電話がありました。僕はそれまでに会ったことはなかったのですが,妹はこの中学校の同窓会に何度も出席していましたから,妹とは顔見知りの方です。母が大腸癌であるということは知っていまして,近況を尋ねる電話でした。すでに緩和病棟に入院していること,現時点で話をすることはできるということ,しかしもう長くはないと思われるので,もし会うということであれば早いうちにした方がよいであろうといったことを伝えました。
7月31日,火曜日。この日が伯母が帰国する日でした。朝のうちに家を出て,母を見舞い,そのまま空港に向いました。伯母と母が会ったのはこの日が最後になったわけです。
僕は午後から見舞いに行きました。この日も僕が着いたときには眠っていて,少ししてから目覚め,ベッドを起こしたのはそれまでと同様です。