第26回さきたま杯。
1コーナーまでにサルサディオーネがハナを奪いきりました。2番手にシャマルで3番手にサクセスエナジー。2馬身差でヘリオス。5番手にルーチェドーロ。6番手にティーズダンク。4馬身差でウインハイラントとエアスピネル。9番手にマイネルサーパス。3馬身差でバーナードループ。5馬身差の最後尾にグレートコマンダー。最初の600mは35秒9のミドルペース。
3コーナーを回るとサルサディオーネにシャマルが並び掛けていきました。その後ろがサクセスエナジーとヘリオスの併走になりましたが,内が開いたのでそこをティーズダンクが突いて3頭が横並びとなり,この5頭が圏内。直線はサルサディオーネとシャマルの競り合いに,外に出してきたティーズダンクが迫り,この3頭がほぼ横に並んでフィニッシュ。優勝は一杯に逃げ切ったサルサディオーネ。外のティーズダンクがアタマ差で2着。真中のシャマルがアタマ差で3着。

優勝したサルサディオーネは日本テレビ盃以来の勝利で重賞5勝目。この馬は実績や相手関係からは能力はメンバーの中で最も高いと思えました。ただ,逃げなければ力を出せない馬ですから1400mに距離が短縮する点が不安材料でした。わりと楽にハナを奪うことができた上に,さほど速いペースにならなかったことでその点はクリア。この形になるととてもしぶとい馬ですから,やはり展開が結果に最も結びつくタイプの馬だといえるでしょう。父はゴールドアリュール。母の父はリンドシェーバー。母は2002年に東京プリンセス賞を勝ったサルサクイーン。
騎乗した大井の矢野貴之騎手は日本テレビ盃以来の重賞6勝目。さきたま杯は初勝利。管理している大井の堀千亜樹調教師は日本テレビ盃以来の重賞6勝目。さきたま杯は初勝利。
フロムErich Seligmann Frommが良心についていっていることと同様のことが,スピノザがいう徳virtusの場合も成立すると僕は考えます。確かに現実的に存在する人間が有徳的であることは困難です。それは第四部定理四から明らかだといえます。この定理Propositioから分かるように,現実的に存在する人間が常に有徳的であるということ,いい換えれば常に能動的であるということはできません。しかし,だからといって現実的に存在する人間が有徳的であるということができないというわけでもありません。たとえば僕たちが共通概念notiones communesに基づいて何事かを認識しているとき,あるいは『エチカ』の定義Definitioや公理Axiomaから何らかの定理を導き出すとき,僕たちには精神の能動actio Mentisが働いています。つまりそのとき,僕たちは有徳的であるのです。ですからたとえそれがどんなに困難なことであったとしても,そのことを有徳的であるということに意味がないということにはなりません。そして同時に,徳というのがだれでも容易に達成することができるものでなければならないという理由は何もないでしょう。したがって,確かにシュトラウスLeo Straussがいうように,徳というのは個人の資質に帰せられるもので,だれでも達成することができないようなことではあるかもしれませんが,徳というのがそういうものであっても構わないと僕は考えます。そしてスピノザも,そのこと自体は否定しないのではないかとも思います。第五部定理四二備考では,高貴なものは稀で困難difficiliaだといわれていて,『エチカ』はその一文で締め括られているわけですが,有徳的であるということは高貴なことであって,ですからそれは稀でありまた困難であるとスピノザは考えているのだろうと僕は解します。
ですから,最初の疑問については僕は否定しません。つまり,シュトラウスがいっている通りであると思いますし,それで構わないと思います。しかしもうひとつの疑問はそうではありません。こうした疑問はスピノザの哲学を十全に理解してない場合に生じてくるものであって,スピノザに対する疑問と限定して解するなら,見当違いのものだといえるからです。なのでこの疑問に関しては詳しく解答することにします。そのためにまず徳の基礎を考えます。
1コーナーまでにサルサディオーネがハナを奪いきりました。2番手にシャマルで3番手にサクセスエナジー。2馬身差でヘリオス。5番手にルーチェドーロ。6番手にティーズダンク。4馬身差でウインハイラントとエアスピネル。9番手にマイネルサーパス。3馬身差でバーナードループ。5馬身差の最後尾にグレートコマンダー。最初の600mは35秒9のミドルペース。
3コーナーを回るとサルサディオーネにシャマルが並び掛けていきました。その後ろがサクセスエナジーとヘリオスの併走になりましたが,内が開いたのでそこをティーズダンクが突いて3頭が横並びとなり,この5頭が圏内。直線はサルサディオーネとシャマルの競り合いに,外に出してきたティーズダンクが迫り,この3頭がほぼ横に並んでフィニッシュ。優勝は一杯に逃げ切ったサルサディオーネ。外のティーズダンクがアタマ差で2着。真中のシャマルがアタマ差で3着。

優勝したサルサディオーネは日本テレビ盃以来の勝利で重賞5勝目。この馬は実績や相手関係からは能力はメンバーの中で最も高いと思えました。ただ,逃げなければ力を出せない馬ですから1400mに距離が短縮する点が不安材料でした。わりと楽にハナを奪うことができた上に,さほど速いペースにならなかったことでその点はクリア。この形になるととてもしぶとい馬ですから,やはり展開が結果に最も結びつくタイプの馬だといえるでしょう。父はゴールドアリュール。母の父はリンドシェーバー。母は2002年に東京プリンセス賞を勝ったサルサクイーン。
騎乗した大井の矢野貴之騎手は日本テレビ盃以来の重賞6勝目。さきたま杯は初勝利。管理している大井の堀千亜樹調教師は日本テレビ盃以来の重賞6勝目。さきたま杯は初勝利。
フロムErich Seligmann Frommが良心についていっていることと同様のことが,スピノザがいう徳virtusの場合も成立すると僕は考えます。確かに現実的に存在する人間が有徳的であることは困難です。それは第四部定理四から明らかだといえます。この定理Propositioから分かるように,現実的に存在する人間が常に有徳的であるということ,いい換えれば常に能動的であるということはできません。しかし,だからといって現実的に存在する人間が有徳的であるということができないというわけでもありません。たとえば僕たちが共通概念notiones communesに基づいて何事かを認識しているとき,あるいは『エチカ』の定義Definitioや公理Axiomaから何らかの定理を導き出すとき,僕たちには精神の能動actio Mentisが働いています。つまりそのとき,僕たちは有徳的であるのです。ですからたとえそれがどんなに困難なことであったとしても,そのことを有徳的であるということに意味がないということにはなりません。そして同時に,徳というのがだれでも容易に達成することができるものでなければならないという理由は何もないでしょう。したがって,確かにシュトラウスLeo Straussがいうように,徳というのは個人の資質に帰せられるもので,だれでも達成することができないようなことではあるかもしれませんが,徳というのがそういうものであっても構わないと僕は考えます。そしてスピノザも,そのこと自体は否定しないのではないかとも思います。第五部定理四二備考では,高貴なものは稀で困難difficiliaだといわれていて,『エチカ』はその一文で締め括られているわけですが,有徳的であるということは高貴なことであって,ですからそれは稀でありまた困難であるとスピノザは考えているのだろうと僕は解します。
ですから,最初の疑問については僕は否定しません。つまり,シュトラウスがいっている通りであると思いますし,それで構わないと思います。しかしもうひとつの疑問はそうではありません。こうした疑問はスピノザの哲学を十全に理解してない場合に生じてくるものであって,スピノザに対する疑問と限定して解するなら,見当違いのものだといえるからです。なのでこの疑問に関しては詳しく解答することにします。そのためにまず徳の基礎を考えます。