日本時間で今日の未明にイギリスのロイヤルアスコット競馬場で行われたプラチナムジュビリーステークスGⅠ芝6ハロン。
直線のコースに24頭が出走。レースの序盤は馬場の中央と外埒近くのふたつに馬群が分散。中盤にかけて中央の馬が徐々に外に寄せていく形。4番枠からの発走だったグレナディアガーズは当然ながら序盤は内側の馬群の中。レースの中盤から出走した馬たちの中では最も内側から先頭付近まで進出。しかし残り200mあたりからはレースのペースについていくことができなくなり,徐々に後退。勝ち馬からおよそ6馬身半差で19着でした。
レースのプランがどういったものであったのかは不明ですが,内容だけでいえば進出していくのが早すぎたという結果です。それでもこれだけの差をつけられているのですから,海外のトップスプリンターと対等に戦うのにはスピード能力が欠けていたということでよいのではないかと思います。
人間が困難を克服するとき,自然Naturaの一部,つまり全自然の一部を構成する個物res singularisにある変化を与えることはあります。僕はそのことを否定するnegareわけではありません。僕は同時にこうしたことが,人間にだけ固有に可能であるとは考えません。ただそのことは今は脇に置いておきましょう。人間が自然の一部に変化を与えるということが理性ratioあるいは科学的知見によって生じ,それが人間の自己保存にとって有益であるというのが,アドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundの基本的な考え方だと僕は解します。よって自己保存が理性あるいは科学的知見の原理であって,それは自然を超越しているとアドルノは考えるのです。だからアドルノは,このような仕方で自然を変化させるということが,人間にのみ可能であると考えていると解するべきで,その点でも僕の見解opinioとは相違があるのですが,その相違は前述したように考慮に入れません。

確かに人間は自然の一部を変化させることが可能です。でも,だから人間が,あるいは人間の理性が自然を超越しているということにはなりません。なぜなら,たとえ自然の一部に変化が生じるとしても,無限様態modus infinitusとしての全自然,全宇宙の姿facies totius Universiの形相formaには何らの変化も生じないからです。これは,たとえ現実的に存在するある人間がその存在を停止する,つまり死ぬということがあったとしても,全宇宙の姿の形相が変化するわけではない,もっといえば,たとえ人類が滅亡するということが生じたとしても,全宇宙の姿は形相を変化させることなく存在するということと同じなのです。つまり人間もまた,変化する自然の一部として全宇宙の内に内在するのであって,自然を超越するような存在ではありません。全自然のうちには無限に多くのinfinita自然現象が生じるのであり,そうして生じた自然現象によって自然を構成する個物の一部が変化するということがあります。それでも全宇宙の形相は不変です。人間が理性を用いて自然を操作するということも,そうした自然現象の一部なのです。
このことは優越性の議論とも関係するでしょう。アドルノは人間が自然に対して優越的であるという見解ですが,スピノザは人間が自然に対して優越的であり得ないと考えているのです。
直線のコースに24頭が出走。レースの序盤は馬場の中央と外埒近くのふたつに馬群が分散。中盤にかけて中央の馬が徐々に外に寄せていく形。4番枠からの発走だったグレナディアガーズは当然ながら序盤は内側の馬群の中。レースの中盤から出走した馬たちの中では最も内側から先頭付近まで進出。しかし残り200mあたりからはレースのペースについていくことができなくなり,徐々に後退。勝ち馬からおよそ6馬身半差で19着でした。
レースのプランがどういったものであったのかは不明ですが,内容だけでいえば進出していくのが早すぎたという結果です。それでもこれだけの差をつけられているのですから,海外のトップスプリンターと対等に戦うのにはスピード能力が欠けていたということでよいのではないかと思います。
人間が困難を克服するとき,自然Naturaの一部,つまり全自然の一部を構成する個物res singularisにある変化を与えることはあります。僕はそのことを否定するnegareわけではありません。僕は同時にこうしたことが,人間にだけ固有に可能であるとは考えません。ただそのことは今は脇に置いておきましょう。人間が自然の一部に変化を与えるということが理性ratioあるいは科学的知見によって生じ,それが人間の自己保存にとって有益であるというのが,アドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundの基本的な考え方だと僕は解します。よって自己保存が理性あるいは科学的知見の原理であって,それは自然を超越しているとアドルノは考えるのです。だからアドルノは,このような仕方で自然を変化させるということが,人間にのみ可能であると考えていると解するべきで,その点でも僕の見解opinioとは相違があるのですが,その相違は前述したように考慮に入れません。

確かに人間は自然の一部を変化させることが可能です。でも,だから人間が,あるいは人間の理性が自然を超越しているということにはなりません。なぜなら,たとえ自然の一部に変化が生じるとしても,無限様態modus infinitusとしての全自然,全宇宙の姿facies totius Universiの形相formaには何らの変化も生じないからです。これは,たとえ現実的に存在するある人間がその存在を停止する,つまり死ぬということがあったとしても,全宇宙の姿の形相が変化するわけではない,もっといえば,たとえ人類が滅亡するということが生じたとしても,全宇宙の姿は形相を変化させることなく存在するということと同じなのです。つまり人間もまた,変化する自然の一部として全宇宙の内に内在するのであって,自然を超越するような存在ではありません。全自然のうちには無限に多くのinfinita自然現象が生じるのであり,そうして生じた自然現象によって自然を構成する個物の一部が変化するということがあります。それでも全宇宙の形相は不変です。人間が理性を用いて自然を操作するということも,そうした自然現象の一部なのです。
このことは優越性の議論とも関係するでしょう。アドルノは人間が自然に対して優越的であるという見解ですが,スピノザは人間が自然に対して優越的であり得ないと考えているのです。