スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京ダービー&人間の徳

2022-06-09 19:22:13 | 地方競馬
 昨晩の第68回東京ダービー。すべての馬が枠に入った後でミヤギザオウが座り込んでしまい,競走除外となって15頭。
 イルヴェントは躓いて2馬身の不利。シャルフジンがすぐに先手を奪いました。2番手以下はカイル,タツノエクスプレス,フレールフィーユ,リコーヴィクターとリヴィフェイス,キャッスルブレイヴ,ミゲルとナッジ,トーセンエルドラド,クライオジェニック,イルヴェント,レディオスター,ノブレスノアの順で一団。ライアンはレース中に手綱が切れてしまうアクシデントがあって,それ以降はレースに参加できず,周回してくるだけになりました。前半の1000mは63秒4のミドルペース。
 3コーナーから直線の入口にかけては,シャルフジン,カイル,フレールフィーユ,リヴィフェイス,キャッスルブレイヴの5頭が大きく横に広がり,内からリコーヴィクターが追い上げるという隊列。直線はまず逃げたシャルフジンと2番手で追っていたカイルの2頭の競り合いになり,競り勝ったのがカイル。内からリコーヴィクター,大外からクライオジェニック,2頭の間からフレールフィーユが追い上げてきたものの,悠々と抜け出したカイルが優勝。2着争いは接戦になりましたが,大外のクライオジェニックが2馬身差で2着。リコーヴィクターがアタマ差の3着でフレールフィーユはクビ差で4着。
 優勝したカイルは南関東重賞初制覇。2歳の6月にデビューしてすでに12戦のキャリアを積んでいました。今年はクラシックを目指していて,京浜盃がシャルフジンとクビ差の2着。ですから能力の上限はここでも勝ち負けできることは確かでした。このレースはシャルフジンがハナに立つとほかの馬が競りかけなかったために,先行馬には楽なペースに。おそらくシャルフジンは距離が長かったために,2番手で追ったカイルに凱歌が上がったということだと思います。ペースを考慮すれば2馬身差は圧勝といえますが,圧倒的な能力差があるというわけではないのではないでしょうか。父は2004年にサラブレッドチャレンジカップ,2009年に黒船賞兵庫ゴールドトロフィー,2010年に兵庫ゴールドトロフィーを勝ったトーセンブライト。母の父はクロフネ。3つ上の半姉に2019年のNARグランプリで3歳最優秀牝馬に選出されたトーセンガーネット
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は大井記念以来の南関東重賞26勝目。第58回以来10年ぶりの東京ダービー2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞55勝目。第61回以来7年ぶりの東京ダービー2勝目。

 現実的に存在する人間が理性ratioに従うということは,その人間の精神の能動actio Mentisを意味しています。一方,人間にとっての徳virtusは,現実的に存在する人間が十全な原因causa adaequataとなってあることをなすこと,つまりその人間の能動を意味します。そして理性に従う限りでは人間の現実的本性actualis essentiaは一致します。よって,人間は理性に従う限りでは徳も一致するのです。つまり,徳の基礎が人間の現実的本性であり,各々の人間が自身のコナトゥスconatusに応じて何かをなすとしても,それが理性に従ったことである限りでは,各々の人間の利益に反しません。いい換えれば,何が有徳的であり何が無力impotentiaであるかという認識cognitioは,すべての人間において一致するのです。これはたとえば,平面上に描かれた三角形が存在するとして,現実的に存在する人間はだれであれ理性を用いてその三角形を認識するcognoscereなら,その三角形の内角の和が180°であるという認識に至る,その認識で一致することになるというのと同じなのです。現実的に存在する人間は理性に従う限りでは,認識する対象が何であるのかとは関係なく,必ずこれと同じような一致した認識に至ります。ですから現実的に存在するある人間の徳とそれとは別の人間の徳が異なることにはならないのです。
                                   
 このことから分かるように,第四部定理二〇とか,第四部定理二二は,人間に一般的な徳というものが存在しないということをいっているのではありません。むしろ徳の基礎は諸個人の現実的本性にあり,そのコナトゥスを基礎とする徳が,すべての個人において一致するということをいっているのです。なのでシュトラウスLeo Straussが感じたであろう疑問のうち,ふたつめの疑問はスピノザの哲学に対しては的外れであるのです。むしろこの種の疑問は,現実的に存在する人間は理性に従うことが困難であるとか,現実的に存在する人間が有徳的であるということは稀であるという事実を指摘しているにすぎません。そしてそれが事実であるということは,おそらくスピノザも認めるでしょうし,僕も認めます。ただいくら困難で稀なことであるといっても,それが不可能であるというわけではない以上,第四部定義八のように徳を定義しても構わないと僕は考えます。
コメント
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