昨晩の第45回帝王賞。笹川騎手が個人的な都合で騎乗を取りやめたため,ネオブレイブは今野騎手に変更。
積極的に逃げようとした馬がなく,なりゆきでオーヴェルニュの逃げに。2番手にクリンチャー,発馬でやや内によれてしまったテーオーケインズが3番手,チュウワウィザードとメイショウハリオが4番手,ノンコノユメが6番手,スワーヴアラミスが7番手,オメガパフュームが8番手。離れた最後尾にネオブレイブという隊列で発走後の正面を通過。向正面でスワーヴアラミスが外から一気に進出していったため,一時的にオーヴェルニュ,クリンチャー,テーオーケインズ,スワーヴアラミスの4頭が横並びで,離れた5番手にメイショウハリオという隊列になりました。前半の1000mは62秒5のスローペース。
3コーナーではオーヴェルニュとクリンチャーが雁行。その外からテーオーケインズも並び掛けていきました。スワーヴアラミスはその外から追い,オメガパフュームも追い上げを開始。チュウワウィザードは内を回ってきました。直線に入るとまずオーヴェルニュとクリンチャーの間からチュウワウィザードが抜け出ました。オーヴェルニュ,クリンチャー,テーオーケインズは伸びを欠き,これらの外からオメガパフュームでさらに外からメイショウハリオ。オメガパフュームはチュウワウィザードに追いつくことができず,残る2頭が内と外に離れての優勝争いに。外のメイショウハリオが差し切って優勝。チュウワウィザードがクビ差で2着。オメガパフュームが1馬身4分の1差で3着。
優勝したメイショウハリオは前々走のマーチステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初制覇。僕はこのレースはオメガパフューム,チュウワウィザード,テーオーケインズの3頭の能力がほかに対して上位で,メイショウハリオは2番手グループの中では上位でも,トップクラスには達していないとみていました。ですがテーオーケインズは能力を出し切れなかったものの,チュウワウィザードとオメガパフュームを降しての優勝ですから,その判断は誤りで,トップ級の能力があったといわざるを得ません。おそらく現状は,左回りでは右回りほどのパフォーマンスを発揮することができないということなのだと思います。母の父はマンハッタンカフェ。ひとつ下の半弟に2月にダイヤモンドステークスを勝った現役のテーオーロイヤル。ハリオアマツバメからの命名。
騎乗した浜中俊騎手は2019年の日本ダービー以来の大レース11勝目。帝王賞は初勝利。管理している岡田稲男調教師は開業から19年2ヶ月で大レース初勝利。
受動passioの選別を倫理的な規準として要求するということが,具体的に示されているのが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』であるといえます。このブログでは再三いっていることですが,『神学・政治論』では敬虔pietasという概念notioがひとつのテーマとなっていて,それが行動,分かりやすくいえば身体的運動の観点から説明されています。そしてこの身体的運動は,敬虔でありさえすれば,能動actioであるか受動であるかを問われません。正確にいうと,能動であればその身体的運動は必ず敬虔であって,もし受動によってそれと同じ身体的運動に決定されるのであれば,それも敬虔である,つまり倫理的規準に適合する,要するに倫理的に正しいことになるのです。この場合は人間は単に能動によって,つまり能動によってのみ倫理的に正しくあることができるわけではなく,ある種の受動によっても倫理的に正しくあることができるようになります。よってそれは,非現実的であるといえなくなります。これは,能動だけを倫理的な規準とした場合に,なぜそれが非現実的なことになってしまうのかということを説明した理由から明らかだといえるでしょう。

では現実的に存在する人間を敬虔にするような受動とは何であるのかということになります。『神学・政治論』でその一例として示されているのが聖書の教えです。聖書は神Deusを愛し,また隣人を愛することを教えるのですが,その教えに従うこと,つまり聖書から働きを受けるpatiことによって神を愛し,また隣人を愛するなら,それは敬虔なことであるがゆえに,倫理的に正しい行動であることになります。理性ratioに従う人は能動的に神を愛しまた隣人を愛するのですが,それだけが倫理的に正しいといわれるのではなくて,何らかの受動によって神を愛しまた隣人を愛するのだとしても,倫理的に正しいのです。ですから聖書だけが人間を倫理的に正しい方向に導くというわけではなく,現実的に存在する人間が,神を愛すように決定するdeterminareすべてのこと,同様に現実的に存在する人間が隣人を愛するように決定するようなすべてのことは,人間の倫理的規準に適合するものであるとスピノザはいうことになるでしょう。
ここから聖書と理性の関係が帰結します。
積極的に逃げようとした馬がなく,なりゆきでオーヴェルニュの逃げに。2番手にクリンチャー,発馬でやや内によれてしまったテーオーケインズが3番手,チュウワウィザードとメイショウハリオが4番手,ノンコノユメが6番手,スワーヴアラミスが7番手,オメガパフュームが8番手。離れた最後尾にネオブレイブという隊列で発走後の正面を通過。向正面でスワーヴアラミスが外から一気に進出していったため,一時的にオーヴェルニュ,クリンチャー,テーオーケインズ,スワーヴアラミスの4頭が横並びで,離れた5番手にメイショウハリオという隊列になりました。前半の1000mは62秒5のスローペース。
3コーナーではオーヴェルニュとクリンチャーが雁行。その外からテーオーケインズも並び掛けていきました。スワーヴアラミスはその外から追い,オメガパフュームも追い上げを開始。チュウワウィザードは内を回ってきました。直線に入るとまずオーヴェルニュとクリンチャーの間からチュウワウィザードが抜け出ました。オーヴェルニュ,クリンチャー,テーオーケインズは伸びを欠き,これらの外からオメガパフュームでさらに外からメイショウハリオ。オメガパフュームはチュウワウィザードに追いつくことができず,残る2頭が内と外に離れての優勝争いに。外のメイショウハリオが差し切って優勝。チュウワウィザードがクビ差で2着。オメガパフュームが1馬身4分の1差で3着。
優勝したメイショウハリオは前々走のマーチステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初制覇。僕はこのレースはオメガパフューム,チュウワウィザード,テーオーケインズの3頭の能力がほかに対して上位で,メイショウハリオは2番手グループの中では上位でも,トップクラスには達していないとみていました。ですがテーオーケインズは能力を出し切れなかったものの,チュウワウィザードとオメガパフュームを降しての優勝ですから,その判断は誤りで,トップ級の能力があったといわざるを得ません。おそらく現状は,左回りでは右回りほどのパフォーマンスを発揮することができないということなのだと思います。母の父はマンハッタンカフェ。ひとつ下の半弟に2月にダイヤモンドステークスを勝った現役のテーオーロイヤル。ハリオアマツバメからの命名。
騎乗した浜中俊騎手は2019年の日本ダービー以来の大レース11勝目。帝王賞は初勝利。管理している岡田稲男調教師は開業から19年2ヶ月で大レース初勝利。
受動passioの選別を倫理的な規準として要求するということが,具体的に示されているのが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』であるといえます。このブログでは再三いっていることですが,『神学・政治論』では敬虔pietasという概念notioがひとつのテーマとなっていて,それが行動,分かりやすくいえば身体的運動の観点から説明されています。そしてこの身体的運動は,敬虔でありさえすれば,能動actioであるか受動であるかを問われません。正確にいうと,能動であればその身体的運動は必ず敬虔であって,もし受動によってそれと同じ身体的運動に決定されるのであれば,それも敬虔である,つまり倫理的規準に適合する,要するに倫理的に正しいことになるのです。この場合は人間は単に能動によって,つまり能動によってのみ倫理的に正しくあることができるわけではなく,ある種の受動によっても倫理的に正しくあることができるようになります。よってそれは,非現実的であるといえなくなります。これは,能動だけを倫理的な規準とした場合に,なぜそれが非現実的なことになってしまうのかということを説明した理由から明らかだといえるでしょう。

では現実的に存在する人間を敬虔にするような受動とは何であるのかということになります。『神学・政治論』でその一例として示されているのが聖書の教えです。聖書は神Deusを愛し,また隣人を愛することを教えるのですが,その教えに従うこと,つまり聖書から働きを受けるpatiことによって神を愛し,また隣人を愛するなら,それは敬虔なことであるがゆえに,倫理的に正しい行動であることになります。理性ratioに従う人は能動的に神を愛しまた隣人を愛するのですが,それだけが倫理的に正しいといわれるのではなくて,何らかの受動によって神を愛しまた隣人を愛するのだとしても,倫理的に正しいのです。ですから聖書だけが人間を倫理的に正しい方向に導くというわけではなく,現実的に存在する人間が,神を愛すように決定するdeterminareすべてのこと,同様に現実的に存在する人間が隣人を愛するように決定するようなすべてのことは,人間の倫理的規準に適合するものであるとスピノザはいうことになるでしょう。
ここから聖書と理性の関係が帰結します。