⑪の最後のところで天龍がいっている輪島大士の存在とは,概ね次のようなものです。
興行という側面を考えたとき,輪島と外国人が戦うと,外国人選手が死んでしまうというように馬場は考えていたのだと天龍は推測しています。死んでしまうというのは,外国人選手が輪島に合わせた試合をしてしまうことによって,選手自身の持ち味が殺されてしまうという意味です。要するに輪島は外国人選手と対等に戦えるだけの力量を持ち合わせていないので,プロレスの試合として成立させるためには外国人選手の方が輪島に合わせる必要があり,しかしそうしてしまうと外国人選手の持ち味が激減してしまうということです。これは天龍の推測ですから,天龍はこの当時の輪島を,その程度の力量の選手であるとみていたことは確実で,馬場がプロモーターとして本当にそう思っていたのかは分かりませんが,少なくとも馬場が輪島をプロレスラーとして高く評価していたというようには考えにくいので,馬場が天龍と同じように輪島を評価していたということは,僕は事実であると判断します。輪島はたぶん本気でプロレスをやろうとしていたと僕は思っていますし,馬場もそのための指導はしたとも思っていますが,日本テレビがプロレス中継の視聴率を上昇させるために売り出そうとしていたという側面はあり,その点では戸口の雑感⑧および⑨でいった,アントン・ヘーシンクと似たような面もあったのも事実です。

外国人選手を相手にすると外国人選手の輝きが失せてしまうのであれば,日本人選手と当てるほかありません。そのとき,天龍と阿修羅・原のコンビは絶好であると馬場は考えて,だから天龍が原と組んでジャンボ・鶴田を相手に戦うことを馬場は許容したのではないかというのが,天龍の推測の全貌です。ただし,この推測が正しいかどうかは不明です。天龍は大相撲の出身で,輪島は大相撲で横綱まで務めた選手なので,天龍は輪島に対してかなりの敬意を抱いていたと僕は推測します。実際に天龍の発言の中には,あまりに輪島を過大に評価したと思えるものもあるのです。輪島という存在は馬場に一定の影響を与えたということは,『1964年のジャイアント馬場』でも指摘されていることなので,天龍の誤解であるということはないでしょうが,いくらかのバイアスも必要なのではないでしょうか。
存在するということ,あるいは存在し得るということは力potentiaであり,存在しないということ,あるいは存在し得ないということは無力impotentiaであるというテーゼは,スピノザの哲学の基本的な原理のひとつです。そして事物の本性essentiaは,その事物の存在existentiaを鼎立します。よってスピノザの哲学でいわれる本性というのは,単に事物の形相formaだけを意味するのではありません。事物の形相も意味しますが,それと同時にその事物の力も意味するのです。その分だけ,スピノザの哲学でいわれる本性は,一般的に哲学でいわれる本性よりも広きにわたるのです。
事物が存在する力は,哲学では実在性realitasといわれます。スピノザも事物の実在性といういい方はします。ただそのときに注意しなければならないのは,事物の本性と事物の実在性は,単に観点の相違にすぎないということです。哲学的には本性と実在性は,概念notioの上で区分されます。スピノザの哲学でも概念として区分されるといういい方は可能ですが,理性的に区別されるというのが正確です。事物の形相と事物の力は,同じ事物のふたつの側面であって,理性ratioの上では分けて考えることができますが,一方だけがある事物に属して他方はその事物に属さないというようには考えることができないのです。
このために,第三部定理七で,各々のものが自己の有に固執するsuo esse perseverare conaturといわれるときの自己の有は,自己の形相であると同時に自己の力でもあるのです。もちろん,存在するということが力であって,存在しないということが無力なのですから,自己の形相に固執するということと自己の力に固執するということは同じことを意味します。ある事物の形相が現実的に存在するということは,その事物が現実的にある力を有するということであり,ある事物が現実的に存在しない,あるいは現実的に存在することをやめるということは,その事物の無力を意味することになるからです。ですから,基本的には自己の有に固執するということを,形相の観点からみても力の観点からみても,異なった結論が下されるということはありません。ところがこれはあくまでも原則であって,そのふたつが相反してしまうという場合が生じることもあるのです。
興行という側面を考えたとき,輪島と外国人が戦うと,外国人選手が死んでしまうというように馬場は考えていたのだと天龍は推測しています。死んでしまうというのは,外国人選手が輪島に合わせた試合をしてしまうことによって,選手自身の持ち味が殺されてしまうという意味です。要するに輪島は外国人選手と対等に戦えるだけの力量を持ち合わせていないので,プロレスの試合として成立させるためには外国人選手の方が輪島に合わせる必要があり,しかしそうしてしまうと外国人選手の持ち味が激減してしまうということです。これは天龍の推測ですから,天龍はこの当時の輪島を,その程度の力量の選手であるとみていたことは確実で,馬場がプロモーターとして本当にそう思っていたのかは分かりませんが,少なくとも馬場が輪島をプロレスラーとして高く評価していたというようには考えにくいので,馬場が天龍と同じように輪島を評価していたということは,僕は事実であると判断します。輪島はたぶん本気でプロレスをやろうとしていたと僕は思っていますし,馬場もそのための指導はしたとも思っていますが,日本テレビがプロレス中継の視聴率を上昇させるために売り出そうとしていたという側面はあり,その点では戸口の雑感⑧および⑨でいった,アントン・ヘーシンクと似たような面もあったのも事実です。

外国人選手を相手にすると外国人選手の輝きが失せてしまうのであれば,日本人選手と当てるほかありません。そのとき,天龍と阿修羅・原のコンビは絶好であると馬場は考えて,だから天龍が原と組んでジャンボ・鶴田を相手に戦うことを馬場は許容したのではないかというのが,天龍の推測の全貌です。ただし,この推測が正しいかどうかは不明です。天龍は大相撲の出身で,輪島は大相撲で横綱まで務めた選手なので,天龍は輪島に対してかなりの敬意を抱いていたと僕は推測します。実際に天龍の発言の中には,あまりに輪島を過大に評価したと思えるものもあるのです。輪島という存在は馬場に一定の影響を与えたということは,『1964年のジャイアント馬場』でも指摘されていることなので,天龍の誤解であるということはないでしょうが,いくらかのバイアスも必要なのではないでしょうか。
存在するということ,あるいは存在し得るということは力potentiaであり,存在しないということ,あるいは存在し得ないということは無力impotentiaであるというテーゼは,スピノザの哲学の基本的な原理のひとつです。そして事物の本性essentiaは,その事物の存在existentiaを鼎立します。よってスピノザの哲学でいわれる本性というのは,単に事物の形相formaだけを意味するのではありません。事物の形相も意味しますが,それと同時にその事物の力も意味するのです。その分だけ,スピノザの哲学でいわれる本性は,一般的に哲学でいわれる本性よりも広きにわたるのです。
事物が存在する力は,哲学では実在性realitasといわれます。スピノザも事物の実在性といういい方はします。ただそのときに注意しなければならないのは,事物の本性と事物の実在性は,単に観点の相違にすぎないということです。哲学的には本性と実在性は,概念notioの上で区分されます。スピノザの哲学でも概念として区分されるといういい方は可能ですが,理性的に区別されるというのが正確です。事物の形相と事物の力は,同じ事物のふたつの側面であって,理性ratioの上では分けて考えることができますが,一方だけがある事物に属して他方はその事物に属さないというようには考えることができないのです。
このために,第三部定理七で,各々のものが自己の有に固執するsuo esse perseverare conaturといわれるときの自己の有は,自己の形相であると同時に自己の力でもあるのです。もちろん,存在するということが力であって,存在しないということが無力なのですから,自己の形相に固執するということと自己の力に固執するということは同じことを意味します。ある事物の形相が現実的に存在するということは,その事物が現実的にある力を有するということであり,ある事物が現実的に存在しない,あるいは現実的に存在することをやめるということは,その事物の無力を意味することになるからです。ですから,基本的には自己の有に固執するということを,形相の観点からみても力の観点からみても,異なった結論が下されるということはありません。ところがこれはあくまでも原則であって,そのふたつが相反してしまうという場合が生じることもあるのです。