2020年度の将棋大賞の名局賞の特別賞の将棋です。
横歩取りから華々しい中盤戦となり,さらにそのまま終盤戦に突入したので,手数はそんなに多くありません。

後手は第1図で収めることもできましたが,☖3六銀と強く戦いに出ました。
この飛車取りに先手が☗3五飛と逃げるのは最強の応手。銀取りに対して☖4四角と打つのが継続手で,☗3六飛は☖8八角成で先手が困ります。
これを間接的に防ぐのが☗3四飛。☖8八角成のときに8四の飛車を取れるようにした一手。
後手は熟考の末に☖3七桂成☗同金☖同銀不成☗同角と清算した上で,☖8八角成を決行しました。

第2図は容易ではありませんが,先手が優勢になっています。
これは政治的な実践に限ったことではなく,何であれ実践の理論について考えるとき,スピノザの哲学では感情affectusの力potentiaを無視することはできません。ですから,たとえそれが能動的な愛amorに限ったものであったとしても,ネグリAntonio Negriが政治的実践の理論を構築するときに,感情に着目している点は,着眼としての鋭さがあったと僕は思います。政治的実践の理論を構築するときに,感情に着目することは,例外的といえるようなものだと思うからです。
能動的な愛だけに着目して政治的実践の理論を構築することが非現実的であるのは,受動感情の力を過少に評価しているからです。だからネグリの理論が,スピノザの哲学を土台とした理論であることはできないと僕は考えます。いい換えれば,絶対的民主主義とネグリがいう政治体制は,スピノザの哲学に即するなら,実現することが不可能であり,持続するdurareことが不可能な政治体制であることになるでしょう。ただ,その否定negatioの論拠というのは,理論そのものの面にあるわけではなくて,実現の可能性にあるのです。僕は以前に『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』を紹介したときにも,ネグリのいっていることは論理的には正しいのであって,その点を過少に評価してもいけないという意味のことをいいました。たとえば第三部定理四三でいわれていることを論理的に推進していけば,ネグリのような政治理論が帰結するともいえるからです。
このように考えると,スピノザの哲学と政治理論の関係がいかなるものであるのかということが疑問点として生じてくるのではないかと思います。僕がここで深く探求してみたいのはこのことなのです。僕は『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』とか『国家論Tractatus Politicus』でスピノザが示している理論が,『エチカ』を代表とする哲学を土台としていると考えています。ところが哲学でスピノザが目指しているところと,政治理論としてスピノザが目指しているところには,ある乖離があるようにもみえるのではないでしょうか。哲学で目指すべきとされている倫理的なものを,政治的な実践として目指そうとする場合には,非現実的であると斥けられているようにみえるからです。この乖離がいかなるものかを考えていくことにします。
横歩取りから華々しい中盤戦となり,さらにそのまま終盤戦に突入したので,手数はそんなに多くありません。

後手は第1図で収めることもできましたが,☖3六銀と強く戦いに出ました。
この飛車取りに先手が☗3五飛と逃げるのは最強の応手。銀取りに対して☖4四角と打つのが継続手で,☗3六飛は☖8八角成で先手が困ります。
これを間接的に防ぐのが☗3四飛。☖8八角成のときに8四の飛車を取れるようにした一手。
後手は熟考の末に☖3七桂成☗同金☖同銀不成☗同角と清算した上で,☖8八角成を決行しました。

第2図は容易ではありませんが,先手が優勢になっています。
これは政治的な実践に限ったことではなく,何であれ実践の理論について考えるとき,スピノザの哲学では感情affectusの力potentiaを無視することはできません。ですから,たとえそれが能動的な愛amorに限ったものであったとしても,ネグリAntonio Negriが政治的実践の理論を構築するときに,感情に着目している点は,着眼としての鋭さがあったと僕は思います。政治的実践の理論を構築するときに,感情に着目することは,例外的といえるようなものだと思うからです。
能動的な愛だけに着目して政治的実践の理論を構築することが非現実的であるのは,受動感情の力を過少に評価しているからです。だからネグリの理論が,スピノザの哲学を土台とした理論であることはできないと僕は考えます。いい換えれば,絶対的民主主義とネグリがいう政治体制は,スピノザの哲学に即するなら,実現することが不可能であり,持続するdurareことが不可能な政治体制であることになるでしょう。ただ,その否定negatioの論拠というのは,理論そのものの面にあるわけではなくて,実現の可能性にあるのです。僕は以前に『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』を紹介したときにも,ネグリのいっていることは論理的には正しいのであって,その点を過少に評価してもいけないという意味のことをいいました。たとえば第三部定理四三でいわれていることを論理的に推進していけば,ネグリのような政治理論が帰結するともいえるからです。
このように考えると,スピノザの哲学と政治理論の関係がいかなるものであるのかということが疑問点として生じてくるのではないかと思います。僕がここで深く探求してみたいのはこのことなのです。僕は『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』とか『国家論Tractatus Politicus』でスピノザが示している理論が,『エチカ』を代表とする哲学を土台としていると考えています。ところが哲学でスピノザが目指しているところと,政治理論としてスピノザが目指しているところには,ある乖離があるようにもみえるのではないでしょうか。哲学で目指すべきとされている倫理的なものを,政治的な実践として目指そうとする場合には,非現実的であると斥けられているようにみえるからです。この乖離がいかなるものかを考えていくことにします。