スピノザの哲学における徳virtusが,一般的な規範を人間に対して適用したものであるということを示すとき,フロムErich Seligmann Frommは第三部定理七にも訴求していますが,より強く訴求しているのは第四部定理二四です。この定理Propositioは,我々においてはといわれているように,明かに人間のことに言及しています。だから必ずしも一般的な規範であるとはいえないでしょう。もしもそれが一般的な規範であるというのであれば,この定理でいわれていること,すなわち,理性ratioの導きに従って行動し,理性の導きに従って生活し,自己の有を維持すること,そしてこれらのことを自己の利益を求める原理に基づいてするということが,人間に限らずすべてのものに妥当し,すべてのものに妥当するがゆえに人間にも妥当するということでなければなりません。

これを一般的な規範ということには無理があると僕は考えます。というか,そもそもスピノザはこの定理では一般的なことをいおうとしているのではなく,人間について何かをいおうとしているのです。それは,この定理が,有徳的であるとはどういうことであるのかということをいおうとしているということから明白です。徳は第四部定義八で定義されていますが,スピノザが定義しているのはあくまでも人間にとっての徳なのであって,人間以外のものにとっての徳が何であるのかということをいおうとしているのではありません。というか,たぶんスピノザは徳というのは人間に特有の概念notioなのであって,人間以外のものについて徳という概念から何事かを語るということは,意味のないことであると考えていたと僕は推測します。
ただし,だからフロムが明らかに誤ったことをいっているとも僕は考えません。少なくとも,自己の利益を求める原理に基づくということは人間にだけ妥当するわけではなく,すべてのものに妥当することだからです。そしてすべてのものに妥当するから,人間にも妥当しなければならないのです。つまりフロムがいう規範の原理的な部分は,人間にだけ特有の原理であるわけではなく,一般的な原理を人間に適用したものであることになるでしょう。よって,規範を徳そのものと等置すると,フロムのいっていることには無理が生じますが,規範の原理,あるいは徳の原理は,確かに一般的な原理を人間に適用したものであるということになるでしょう。
『エチカ』で示されている倫理学,倫理的に好ましいとされるのはどういうことであるかといえば,それは能動actioにほかなりません。つまり能動的であるということが倫理的に好ましい,あるいは合倫理的なことで,受動的であることは倫理的に好ましくない,あるいは合倫理的ではないということが,スピノザが示していることだといえます。スピノザが,人間が能動的である限りの現実的本性actualis essentiaが人間にとっての徳virtusであるという主旨のことを第四部定義八でいっているのは,おそらくこうした事情が関係しています。有徳的であるということは合倫理的で,有徳的でないということは合倫理的でないということを連想させるであろうからです。
したがって,この倫理学をそのまま政治学に適用すると,能動的な政治体制が,人間が構築すべき政治体制であり,かつ人間にとって最良の政治体制であるということが帰結します。ネグリAntonio Negriは能動的な愛amorを土台として政治体制の構築を目指すのですから,少なくともそれはスピノザの倫理学に見合った政治学であるといえます。だから僕も,ネグリが主張していることは論理的に誤っているわけではないというのです。しかし一方でスピノザは,あるいはスピノザの倫理学は,そうしたことは非現実的であると斥けるのです。そのゆえにスピノザの倫理学と政治学の間には乖離があるようにみえるのです。
実際にこの種の乖離があるということを僕は否定しません。ただ,ネグリの政治的立場が非現実的であると斥けられるのと同じように,現実的に存在する人間が倫理的であるということもまた非現実的であると斥けられるという見方も可能だと僕は思っていて,現在は僕はこちらの解釈の方をしています。つまり『エチカ』というのは,確かに倫理あるいは徳として能動を示しているのですが,だからといって人間が完全に合倫理的にあるいは有徳的に生活するということが現実的であるというようにスピノザは考えているわけではなく,それと同じように,合倫理的なこと,有徳的なことを土台とした政治体制が構築されるということも,現実的ではないと考えているというように,僕は今は解します。これなら乖離はそれほどありません。

これを一般的な規範ということには無理があると僕は考えます。というか,そもそもスピノザはこの定理では一般的なことをいおうとしているのではなく,人間について何かをいおうとしているのです。それは,この定理が,有徳的であるとはどういうことであるのかということをいおうとしているということから明白です。徳は第四部定義八で定義されていますが,スピノザが定義しているのはあくまでも人間にとっての徳なのであって,人間以外のものにとっての徳が何であるのかということをいおうとしているのではありません。というか,たぶんスピノザは徳というのは人間に特有の概念notioなのであって,人間以外のものについて徳という概念から何事かを語るということは,意味のないことであると考えていたと僕は推測します。
ただし,だからフロムが明らかに誤ったことをいっているとも僕は考えません。少なくとも,自己の利益を求める原理に基づくということは人間にだけ妥当するわけではなく,すべてのものに妥当することだからです。そしてすべてのものに妥当するから,人間にも妥当しなければならないのです。つまりフロムがいう規範の原理的な部分は,人間にだけ特有の原理であるわけではなく,一般的な原理を人間に適用したものであることになるでしょう。よって,規範を徳そのものと等置すると,フロムのいっていることには無理が生じますが,規範の原理,あるいは徳の原理は,確かに一般的な原理を人間に適用したものであるということになるでしょう。
『エチカ』で示されている倫理学,倫理的に好ましいとされるのはどういうことであるかといえば,それは能動actioにほかなりません。つまり能動的であるということが倫理的に好ましい,あるいは合倫理的なことで,受動的であることは倫理的に好ましくない,あるいは合倫理的ではないということが,スピノザが示していることだといえます。スピノザが,人間が能動的である限りの現実的本性actualis essentiaが人間にとっての徳virtusであるという主旨のことを第四部定義八でいっているのは,おそらくこうした事情が関係しています。有徳的であるということは合倫理的で,有徳的でないということは合倫理的でないということを連想させるであろうからです。
したがって,この倫理学をそのまま政治学に適用すると,能動的な政治体制が,人間が構築すべき政治体制であり,かつ人間にとって最良の政治体制であるということが帰結します。ネグリAntonio Negriは能動的な愛amorを土台として政治体制の構築を目指すのですから,少なくともそれはスピノザの倫理学に見合った政治学であるといえます。だから僕も,ネグリが主張していることは論理的に誤っているわけではないというのです。しかし一方でスピノザは,あるいはスピノザの倫理学は,そうしたことは非現実的であると斥けるのです。そのゆえにスピノザの倫理学と政治学の間には乖離があるようにみえるのです。
実際にこの種の乖離があるということを僕は否定しません。ただ,ネグリの政治的立場が非現実的であると斥けられるのと同じように,現実的に存在する人間が倫理的であるということもまた非現実的であると斥けられるという見方も可能だと僕は思っていて,現在は僕はこちらの解釈の方をしています。つまり『エチカ』というのは,確かに倫理あるいは徳として能動を示しているのですが,だからといって人間が完全に合倫理的にあるいは有徳的に生活するということが現実的であるというようにスピノザは考えているわけではなく,それと同じように,合倫理的なこと,有徳的なことを土台とした政治体制が構築されるということも,現実的ではないと考えているというように,僕は今は解します。これなら乖離はそれほどありません。