スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

『彼岸過迄』の時制&超越的な徳

2022-06-06 19:21:50 | 歌・小説
 『漱石と三人の読者』では,『彼岸過迄』を読む際には,物語の中の時制に注意しなければならないということが指摘されています。この点を簡単に紹介しておきます。
                                   
 『彼岸過迄』は,6編の短編がまとまってひとつの小説となっています。その小説全体の主人公は,須永という男なのですが,須永は最初から登場するのではありません。短編でいえばふたつめの「停留所」という物語の冒頭から登場します。そこではある男の友人という形で紹介されます。その友人が敬太郎で,『彼岸過迄』の全体は,こちらの敬太郎があちらこちらを動き回ることで成立するのです。要するに敬太郎が物語を回していく役で,その敬太郎が須永と関係することで,物語の全体の主人公が須永になるという形です。『こころ』は私が先生と出会うことで,物語の主人公は先生になるわけで,その意味では構造は似ています。ただ先生の手記のような内容は『彼岸過迄』にはありません。
 須永が最初に登場する「停留所」というのは,時制でいえば現在のことです。現在というのは,敬太郎にとっての現在を意味します。その現在が,その次の短編である「報告」に続いています。しかし残りの3編の短編は,「報告」の後にあるのですが,敬太郎が知ることになる須永の過去の話なのです。そしてそのまま『彼岸過迄』は終わりますから,『彼岸過迄』の物語の終了部分というのは,物語の中の時制でいえば,「報告」で語られている内容までよりは前のことになります。いい換えれば,もしも物語が時制の順で並べられれば,第4章,5章,6章,1章,2章,3章の順です。
 過去の話が物語の後の方に出てくるので,時制もその順であるように読解される可能性がありますし,実際にある時代までは『彼岸過迄』はそのように読まれていたようです。主人公である須永の現在は,後半で書かれている姿ではありません。「停留所」で説明されている須永が,敬太郎が動き回る現在の須永の姿なのです。

 virtusの基礎を諸個人のコナトゥスconatusに訴求するスピノザの考え方の僕が解する意義は,シュトラウスLeo Straussが抱いたであろう疑問に対して一定の解答を与えます。というのもこのことによって,人間の徳,とくに人間集団の徳をどう考えるべきかということについて,部分的な解答を与えているからです。
 人間集団の徳は,その集団の成員の一人ひとりの徳に反するものであってはなりません。あるいはそれが成員の徳に反するものであったら,それはその集団の徳とはいえません。その場合は,集団の成員の全体がひとつの原因causaとなって何らかの結果effectusを産出するproducereことが不可能になってしまうからです。したがってまず,現実的に存在するある人間の徳を超越するような徳というものは存在し得ないことになります。むしろ個人のコナトゥスを超越するいかなる事柄も,それを徳ということはできません。
 次に,それが現実的であるかどうかは別として,現実的に存在するすべての人間が,ひとつの原因となるように協同して何らかの結果を産み出すということは,論理的には可能です。要するに地球上に存在するすべての人間が協同してひとつの原因となるということが,論理的には可能なのです。よって,現実的に存在するある人間の徳を超越するようないかなる徳も存在し得ないということになるのです。したがって,もしもシュトラウスが,あるいはシュトラウスに限らずだれであっても,個人の徳を超越するような観点から何らかの徳を解しているとすれば,それはスピノザに対する疑問として成立しないのです。スピノザは初めからそのような徳があるということを想定していない,というかそういう類の徳があるということを否定しているからです。要するに社会societasであれ共同体であれ,もう少し具体的にいえば宗教団体であれ国家Civitasであれ,それらはいずれも現実的に存在する個物res singularisではありますから,それに特有のコナトゥスを有し,よってそれに特有の徳も有するのですが,その徳というのは,その集団の成員の徳を超越するような徳ではありません。むしろ個人のコナトゥスおよび徳を超越するいかなるものも,それはその集団の徳とはいえず,その集団の無力impotentiaを表示するのです。
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