スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

中野カップレース&課題

2022-06-28 19:30:51 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは渡辺‐成田の福島,竹内‐岡本の中部,阿部‐伊藤颯馬‐北津留‐伊藤旭の九州で郡司は単騎。
 前受けは竹内。3番手に阿部,7番手に郡司,8番手に渡辺で周回。残り2周のホームで阿部が竹内を叩き,追走した郡司が5番手,6番手に竹内で8番手に渡辺という一列棒状となって打鐘。打鐘後のコーナーで郡司が内から伊藤旭をどかして北津留の後ろに入り,伊藤旭が郡司の後ろという隊列に変化。バックに入ると伊藤颯馬が番手から発進。伊藤旭が郡司の横に追い上げましたが,北津留の後ろは郡司が確保。郡司は伊藤颯馬と北津留の間に進路を取りましたが,立て直して伸びた北津留が郡司の差し脚を凌いで優勝。郡司が4分の1車輪差で2着。伊藤颯馬が半車身差で3着。
 優勝した福岡の北津留翼選手は2017年5月の宇都宮記念以来となる記念競輪6勝目。久留米記念は初制覇。このレースは脚力なら郡司が断然といっていい存在ですが,単騎。それに対して地元の九州勢が4人で結束して対抗するというレース。結束の強さの方がやや上回ったという結果でしょう。伊藤旭は打鐘後にやや外に進路を取ったために郡司に内に入られたのですが,もし内を閉めて郡司の進出を阻んでいれば,九州勢にとってもっと楽な展開になっていたのではないでしょうか。北津留が優勝したのでよかったですが,着差を考えれば,致命的になりかねなかったと思います。

 ネグリAntonio Negriの政治的実践の手法が成功し,かつそうして構築された政治体制が維持されていくためには,第四部定理七の様式に則して,能動的な愛amorがすべての受動感情よりも常に強力でなければならないのでした。能動actioが倫理の原理を構成するというのは,愛でなくともよいのですが,何らかの能動的な感情affectusが,やはりこの定理Propositioに則する形で,すべての受動感情よりも強力であることにより,人間は倫理的である,あるいは同じことですが,有徳的であるということになります。そこでもしもネグリのいうようなことが非現実的であるとすれば,同じ理屈で人間が倫理的に正しくあること,有徳的であるということは非現実的であるということになると僕は考えているのです。実際に第四部定理四系によれば,現実的に存在する人間は,程度の差はあるとしても常に受動passioに隷属しているのですから,これを受動感情に適用することも可能といえるでしょう。また,第五部定理四二備考は,高貴なことは稀で困難といっていますが,有徳的であることは高貴なことと考えられますから,スピノザ自身がそれは稀で困難だといっていると解することができ,それは非現実的であるという意味に解することができる筈です。ですから今の僕のように,スピノザの倫理学と政治学との間には,そういわれるほどの乖離はないのだという解釈も,さほど間違ったものとはいえないのではないかと思います。
                                   
 ただこの解釈を採用するなら,解決しておかなければならない課題があります。非現実的であるというのは,不可能であるという意味ではなくて,可能であるけれどきわめて困難だという意味です。なので僕はそうした事柄についてそれをvirtusということは問題視しません。人間が有徳的であるということが,人間にとって容易に達成できるようなことでなければならないとは思わないからです。これはシュトラウスLeo Straussに関連する考察の中でもいったことです。しかし,人間に一般的な倫理という観点からみると,ここには克服されるべき課題があります。これだと人間が倫理的に正しくあるということは非現実的なことであるということになり,『エチカ』は何の倫理も示していないことになるだろうからです。
コメント
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