『虞美人草』は後に漱石自身が失敗作であったと振り返っています。また僕自身も漱石の小説としては優れたものではないと思っています。失敗となってしまった理由としては,僕は主にふたつあると考えていますので,その見解を順に示していくことにします。最初の理由は,この小説が,最初の連載小説であったという点と関係しています。

漱石は1907年に大学教授の職を辞し,朝日新聞に入社して職業作家の道を選びました。そしてその際に,大学教授と新聞屋の間に,職業上の貴賤はないという主旨の入社の辞を紙面に寄せました。漱石がそのようなことをいわなければならなかったのは,世間的には大学教授が職業としては上で,新聞社の社員はそれに劣るというようにみられていたからです。たぶん漱石は,そうした世間的な評価に挑戦しよう,それを覆そうという意欲あるいは野心をもっていたのではないだろうかというのが僕の推測です。
このために,大学教授が学生に物事を教えるように,作家として読者に物事を教えようとする意識が漱石に働いていた,それも無意識のうちにではなく,そのことを強く意識していたのではないかと思うのです。僕は『虞美人草』の文章の中には,ペダンティックなものがあって,そのために小説自体が読みにくくなっているといいましたが,そういうペダンティックな文章が頻出するのは,漱石のそういった意識の表出だったのではないかと思うのです。物語の本筋と無関係のところでこうした文章が出てくるのは『虞美人草』が初めてであり,かつこの小説だけであるということを考慮すると,この推測はあながち間違っているともいえないのではないでしょうか。
もしも力potentiaが,存在する力だけを意味するのであれば,事物の形相formaと事物の力が相反するということはありません。しかしどのような事物であれ,存在するということ以上の力を有します。この力が,形相に相反するという場合があり得るのです。その場合,自己の有esseを維持するということを,自己の形相を維持するという意味に解しても,自己の力を維持するという意味に解しても,理性ratioに従う限りではすべての人間の結論は一致します。つまり,形相を維持することも徳virtusであるし,力を維持することも徳であるということは理解するのです。ですが力を維持しようとすれば形相の維持を断念しなければならず,逆に形相を維持しようとすれば力を維持することを断念しなければならないとすれば,どちらか一方しか選択することができません。ですからどちらを選択するかは人によって異なり得ます。つまり,第四部定理三六にあるように,徳に従う人の最高の善bonumはすべての人に共通ではあるのですが,だからといって徳に従う人がすべて同じように行動するということにはなりません。形相の維持を選択することもあり得ますし,力の維持の方を選択するという場合もあり得るのです。
僕が以前に実例として示したのは,母が抗がん剤による治療を拒絶したことです。ここでは一般的に説明しますが,抗がん剤による治療を継続することによって,形相は維持することができます。いい換えれば,その治療をしない場合と比べて,長く生きることができます。しかし抗がん剤による治療には副作用が出ることがあり,そのことによって,なし得たことがなし得なくなるということがあります。いい換えれば,抗がん剤の治療を受けなければできていたであろうことが,治療を受けることによってできなくなるということがあり得ます。よってこの場合は,形相を維持することの方を重視すれば,力の維持の一部を断念することになっても抗がん剤による治療を受けるという選択になりますし,力を維持することの方を重視すれば,形相の維持の一部を断念しても抗がん剤による治療は受けないという選択になるでしょう。正反対の選択ですが,どちらも徳に従った選択ではあるのです。

漱石は1907年に大学教授の職を辞し,朝日新聞に入社して職業作家の道を選びました。そしてその際に,大学教授と新聞屋の間に,職業上の貴賤はないという主旨の入社の辞を紙面に寄せました。漱石がそのようなことをいわなければならなかったのは,世間的には大学教授が職業としては上で,新聞社の社員はそれに劣るというようにみられていたからです。たぶん漱石は,そうした世間的な評価に挑戦しよう,それを覆そうという意欲あるいは野心をもっていたのではないだろうかというのが僕の推測です。
このために,大学教授が学生に物事を教えるように,作家として読者に物事を教えようとする意識が漱石に働いていた,それも無意識のうちにではなく,そのことを強く意識していたのではないかと思うのです。僕は『虞美人草』の文章の中には,ペダンティックなものがあって,そのために小説自体が読みにくくなっているといいましたが,そういうペダンティックな文章が頻出するのは,漱石のそういった意識の表出だったのではないかと思うのです。物語の本筋と無関係のところでこうした文章が出てくるのは『虞美人草』が初めてであり,かつこの小説だけであるということを考慮すると,この推測はあながち間違っているともいえないのではないでしょうか。
もしも力potentiaが,存在する力だけを意味するのであれば,事物の形相formaと事物の力が相反するということはありません。しかしどのような事物であれ,存在するということ以上の力を有します。この力が,形相に相反するという場合があり得るのです。その場合,自己の有esseを維持するということを,自己の形相を維持するという意味に解しても,自己の力を維持するという意味に解しても,理性ratioに従う限りではすべての人間の結論は一致します。つまり,形相を維持することも徳virtusであるし,力を維持することも徳であるということは理解するのです。ですが力を維持しようとすれば形相の維持を断念しなければならず,逆に形相を維持しようとすれば力を維持することを断念しなければならないとすれば,どちらか一方しか選択することができません。ですからどちらを選択するかは人によって異なり得ます。つまり,第四部定理三六にあるように,徳に従う人の最高の善bonumはすべての人に共通ではあるのですが,だからといって徳に従う人がすべて同じように行動するということにはなりません。形相の維持を選択することもあり得ますし,力の維持の方を選択するという場合もあり得るのです。
僕が以前に実例として示したのは,母が抗がん剤による治療を拒絶したことです。ここでは一般的に説明しますが,抗がん剤による治療を継続することによって,形相は維持することができます。いい換えれば,その治療をしない場合と比べて,長く生きることができます。しかし抗がん剤による治療には副作用が出ることがあり,そのことによって,なし得たことがなし得なくなるということがあります。いい換えれば,抗がん剤の治療を受けなければできていたであろうことが,治療を受けることによってできなくなるということがあり得ます。よってこの場合は,形相を維持することの方を重視すれば,力の維持の一部を断念することになっても抗がん剤による治療を受けるという選択になりますし,力を維持することの方を重視すれば,形相の維持の一部を断念しても抗がん剤による治療は受けないという選択になるでしょう。正反対の選択ですが,どちらも徳に従った選択ではあるのです。